鎌田敏夫 恋しても     1 「お早うございます!」  慶子《けいこ》が、ステップを飛び跳《は》ねるようにして、中継車《ちゆうけいしや》に飛び込んできた。 「お早う」  スイッチャーの宮本誠《みやもとまこと》が、スイッチャー卓から振り返る。 「お早う」  ディレクターの村田正道《むらたまさみち》も、そばから振り返った。 「今日の公式記録です」  慶子は、正道を無視して、誠に、紙を手渡した。公式記録というのは、その日の試合に出場する全選手の成績が一覧表になっているものだ。 「アシスタントに持たせればいいのに……」  誠が受取りながら言った。公式記録員室に置いてある紙を取りにいくのは、アシスタントの仕事で、一か月前の試合から、放送室のディレクターに昇格した慶子の仕事ではない。 「ついでがあったから」  慶子は、誠の後ろからモニターを覗《のぞ》きこんだ。 「センターの画《え》、近くなったんじゃない?」 「今日から、新開発のカメラ……キャッチャーの顔がばっちりだろう?」  センターから、バッターボックスを映《うつ》すカメラは、二カメと言って、中継のメインカメラだ。少しでも大きく明るく、選手の表情を映しだそうと、各社が新しい技術を競《きそ》うのも、このカメラなのだ。  慶子は、中継車が大好きだ。  運転席の後ろに、いくつものテレビモニターが並んでいる。球場の各ポジションに設置されたカメラから送られてくる映像を映しだすモニター。放送に使う画を映しだしているメインモニター。テレビ局が放映中の番組を映し出しているモニター。  いくつものカメラが映し出した映像を、素早《すばや》く選択して、放送用のモニターに流していくのが、スイッチャーの仕事なのだ。指示を出すのはディレクターの仕事だが、スイッチャーが独自に画を選んでしまう場合もある。ディレクターとスイッチャーの息が合ってないと、中継は、ぎこちないものになってしまう。だから、ディレクターとスイッチャーは、コンビを組んでいることが多くて、正道と誠も、特別なことがないかぎりは、一緒に仕事をしている。  中継車の後部には、ビデオや音声用の機械が、左右に分かれて、天井まで設置されている。運転席以外に窓のない中継車は、マシーンの塊なのだ。  慶子は、いつかは、この中継車のディレクターの椅子に座りたいと思っている。 「解説の関根さんが、仰木監督《おおぎかんとく》の話題を追っていきたいそうですから、ベンチの画《え》をよろしくお願いします」  慶子は、正道に向かって言って、中継車を出ていった。 「慶子、何か怒ってたんじゃないのか?」  慶子が中継車を出ていくと、すぐに誠が言った。VTRのエンジニアや音声ミキサーの連中は、中継前の一服《いつぷく》をしに表に出たらしくて、車の中には、誠と正道しかいなかった。 「うん……」 「これか?」  誠が、小指を立てる。 「隣《となり》の女だよ」 「マンションの?」 「そう……」 「あの派手めの女か?」 「そう……」 「どうしたんだ?」 「デイトした」 「それだけか?」 「帰り道にキスをした」 「それだけか?」 「私の部屋に寄っていかないっていうから……」 「どうした?」 「寄った」 「それじゃ、慶子が怒るの無理《むり》はない」 「昨日、慶子に怒鳴《どな》りつけられたよ」 「何て?」  昨夜、マンションに帰ると、慶子がすでに来ていた。帰りが遅くなるから、先に行って待っててくれと、慶子にキイを渡してあったのだ。正道が帰りつくまでに、隣の女が部屋を訪ねてきたらしく、女のことは、慶子にバレてしまっていた。  慶子の顔を見たとたんに、まずいことになったなと思って、正道は、わざとおどけたような声を出した。 「何を怒ってるの、慶子ちゃん?」 「そのくらいのこと分からんのか、このアホンダラが!」  慶子が、いきなり関西弁で怒鳴りつけた。正道はびっくりして、まじまじ慶子の顔を見てしまった。 「自分の胸に聞けば、そのくらいのこと分かるやろうが! あっちにもこっちにも、女を作って、あっちからもこっちからも、電話がかかってきて……じゃ、また電話をします……後で必ず電話をする……テレビのチャンネルを切り換えるように女を切り換えて、一チャンは郁子《いくこ》、三チャンは光代《みつよ》、四は由子《よしこ》で、六は睦美《むつみ》、八は弥生《やよい》で、十は登志子《としこ》、十二チャンネルに衛星放送。あっちの女が具合が悪くなったら、こっちの女。こっちの女が面白くなくなったら、あっちの女。一人の女ともまともに付き合えなくて、それでも、男か! お前みたいなアホンダラと付き合うた、こっちが悪かったんや。どいてんか、このチャンネル男!」  慶子は、しゃべりまくると、正道を突きのけるようにして、マンションを出ていった。  慶子がいなくなってからも、正道は、しばらく驚きから覚《さ》めずに、部屋の中に立ちつくしていた。     2 「慶子が、関西弁で啖呵《たんか》を切ったのか?」  誠も、信じられない顔になった。 「あいつの関西弁を聞いたのは、初めてだった」  慶子の実家は、大阪の高槻《たかつき》にある。テレビ局に就職しただけあって、慶子は、きれいな標準語を話して、いままで一度も、出身地を思い出させるようなしゃべり方をしたことはなかったのだ。 「ま、仕様がない」 「何が?」 「チャンネル男だとはよく言ったもんだよ。慶子の言う通りだ」 「郁子に光代に由子に睦美……おれ、そんな女に心当たりないぞ」 「それは、慶子の例え話だよ。でも、慶子の言う通りだ」 「何が?」 「お前の女との付き合い方だよ」  中継車の中にも、外線と話の出来る電話がある。中継前に、よく、女から正道に電話がかかってきていたのは、誠も知っている。局にいる時は、もっとひんぱんにかかってきて、「後で、また電話をする、後で必ず電話をする」というのは、正道の口癖《くちぐせ》みたいになっていたのだ。 「あっちの女が具合《ぐあい》悪くなったら、こっちの女……こっちの女が面白くなくなったら、あっちの女……慶子は、よくお前のことを見てるよ」  正道も、慶子に怒鳴りつけられながら、まさにその通りだと思ったのだ。テレビ局のディレクターというのは、よくもてる。スポーツのディレクターとなると、もっともてる。もてることをいいことに、あっちの女、こっちの女と、テレビのチャンネルを切り換えるように付き合ってきたことは、事実なのだ。慶子に言われてみると、まさにチャンネル男だった。 「昇進祝いの日か?」  誠が、スイッチャー卓の上でいろんな指を動かしてみながら言った。中継が始まると、スイッチャーというのは、迅速《じんそく》な指の動きを要求される。 「何が?」 「慶子と、そんな関係になったの」 「うん……」  一月ほど前、中央テレビとしては、女性で初めての放送室のディレクターとなった慶子の昇格祝いが、西麻布《にしあざぶ》であった。三次会まで盛り上がって、最後は、正道が、慶子を送っていくことになったのだ。 「おれのとこに寄っていくか?」  酔った勢いもあって、半分は冗談《じようだん》で、正道は言ったのだ。慶子は、しばらく答えなかったが、しばらくして、黙ったままで大きくうなずいた。  その時は、酔った勢いだったが、次の時には、二人とも酔っていなかった。遅くなるからと、慶子にキイを渡したのは、三度目の時だった。 「慶子は、お前のことを本気で好きだったんじゃないのか?」 「うん……」 「遊び相手にする女じゃないぞ、慶子は」 「分かってるよ。でも、あいつは、愛想《あいそ》なしで、クソ真面目《まじめ》で、NHKみたいな女だぞ。毎日毎日NHKだけを見て、暮らせるか、お前」 「おれは、暮らせる」  誠が怒ったように言った。  その時、インカムに慶子の声が飛び込んできた。 「放送室、青木から、車、村田さん」 「車です」  正道が答える。 「入りの画《え》を、もう一度確認したいと思います」 「デストラーデのホームランのVTRを出してから、球場のロング」 「了解……」 「近鉄が、このまま攻撃中の場合は、絶好調の石井選手の話題から入りたいとアナが言ってますので、よろしく」 「了解」  慶子の声が切れた。  慶子がディレクターをしている放送室は、ネット裏にある。放送室には、解説者や中継のアナウンサーなどがいて、画面に映ることこそめったにないが、音声は、放送中ずっと流れている。それを仕切っていくのは、なかなか大変な仕事なのだ。  本来は、男の仕事であるスポーツ中継のディレクターに慶子がなれたのは、負けん気と熱心さもさることながら、慶子の、女には珍《めずら》しい性格の歯切れのよさが、局の上層部に認められたからだった。 「放送室、青木から、車、村田さん。本日の中継、よろしくお願いします!」  慶子の元気のいい声が、インカムから流れてきた。放送二分前だ。昨夜、喧嘩《けんか》のあげくに別れ話をしたことなど、声には、まったく表れていない。 「了解、よろしく」  と、正道は答えながら、性格と同じくらいに歯切れのいい、慶子のひきしまった肉体を思い出していた。 「酔った勢いでこんなことになりたくなかった」  マンションに来ておきながら、そう言って、正道の腕の中で暴《あば》れてみせた慶子。そのくせ、激しく正道に抱きついてきた慶子。性格の歯切れのよさとは、まったく正反対に、その夜の慶子は、自分の感情を持てあましていた。  遊びなれた正道にとって、そんな慶子の姿は新鮮《しんせん》ではあったが、他の女との関係を断ち切らせるほどの魅力があったわけではない。性的な魅力からいうと、慶子は、味の薄い淡白《たんぱく》な白身魚でしかなかった。  しかし、正道は、今、慶子とこのまま別れたくないと切実に思っていた。 「慶子は、お前にまだ未練《みれん》があるよ」  誠が、正道の心を見透《みす》かすように言った。 「どうして?」 「自分で持ってこなくてもいい、公式記録を持ってきてるじゃないか」  中継寸前で、音声やVTRのエンジニアたちも車にもどってきていた。慶子の持ってきた紙をヒラヒラと振って見せながら、誠が小声でささやいた。 「本社から、車」  局のディレクターの声が飛び込んできた。中継車から送る映像を、実際に放送する調整室が、テレビ局にある。実況中継《じつきようちゆうけい》というのは、本社と中継車と放送室の巧《たく》みな連携《れんけい》プレーで行われているのだ。 「車です」  正道が答えた。 「放送十秒前です……九秒……八……」  本社のディレクターの声は、放送室の慶子の耳にも、各カメラを担当するカメラマンの耳にも、中継車の中にいるエンジニアたちの耳にも聞こえている。  中継にたずさわるすべての人間が、緊張《きんちよう》する一瞬だ。 「七……六……五……四……三……二……」  VTRのオペレーターがスイッチを押す。  中継モニターに、放送開始前の一回裏に打った、デストラーデのライト上段への先制の大ホームランが映しだされる。  誠が、画面を切り換える。  ネット裏の高い位置にあるカメラが映しだした球場のロングに、画《え》が切り替わる。ホームランに酔う大歓声《だいかんせい》に、野球中継のテーマ曲がかぶって入った。  七時半。ナイター中継の開始だ。     3  ドアは開けたが、慶子は、チェーンを外さなかった。 「何の用?」  と、そっけなく言う。  慶子の住んでいる小さなマンションは、京浜《けいひん》急行の北品川《きたしながわ》の駅から、五分ほどのところにある。このあたりは、江戸が出来た頃《ころ》からの町で、近くには、東海道五十三次の標識《ひようしき》のある踏切もある。そうかと思うと、そびえ立つようなツインタワービルがあったり、新幹線の列車基地があったりする。新幹線基地のすぐ隣が運河になっていて、隅田川《すみだがわ》に浮かぶ屋形船《やかたぶね》の溜《た》まりになったりしているのも、不思議《ふしぎ》な風景だ。 「中に入れてくれないのか?」  正道は、チェーン越しに言った。 「入れる理由がないでしょ」  慶子が、そっけなく言う。 「隣の女とは、部屋に寄っただけだから、おれは何にもしてない」  何にもしてないのは、事実だった。もっとも、双方にその気がなかったからではなくて、正道が女の部屋に入って、ものの三分もたたない時に、電話がかかってきたのだ。相手は、女の男か恋人か、深くは分からなかったが、それまで、酔って正道にしなだれかかっていた女が、急に真顔《まがお》になって、 「ごめんね、人が来るの」  と、言った。 「またね」  部屋を出る時に、女は、色っぽい目で正道を見つめたのだが、途中まで渡りかかった橋を、急に外されたような恰好《かつこう》で、正道の方も、すっかり酔いが覚めてしまっていた。  しかし、そのおかげで、胸を張って慶子に弁解が出来る。 「おれは、あの女とは、何にもしてない」 「隣の女のことだけじゃないでしょ」  そう言われると、心苦しい。 「おれ、心を入れ換えるから」 「心があるの、あなたに」 「他の女とは、もう絶対に付き合わない」 「チャンネル男に、そんなことが出来るわけがないじゃないの」  ドアチェーンの向こうで、慶子が、せせら笑った。その冷やかな笑顔に、正道は、なぜか強烈な魅力を感じていた。 「おれ、これからNHKだけにする。他のチャンネルには目もくれない」 「何の話よ」  冷たさ一点張りだった慶子が、初めて表情を和らげた。 「心機一転《しんきいつてん》する。住んでるところも、引っ越す」  あの時は何もないままだったが、隣の女とは、このままではすみそうになかった。隣の女と本当に男女の関係になったりしたら、慶子との縁は完全に切れてしまう。  切れかかった糸が、完全に切れてしまわないうちにと、正道は必死になっていた。しかし、慶子の方は、 「どこに住んでも、同じことよ、あなたは」  と、冷やかに笑っている。 「違ったら、どうする?」 「違ったら、片手で逆立《さかだ》ちして歩いて上げる」 「出来るのか、そんなことが?」 「出来ないわよ」 「出来ないこと言うなよ」 「そっちこそ、出来ないことを言ってるじゃないの」  正道の心機一転なんか、慶子は、全然信用していなかった。 「絶対にやってみせる。おれは、これから、他の女とは絶対に付き合わない。お前以外の女には目もくれない」 「やってみれば」 「もし出来たら、もう一度、おれと付き合ってくれるか?」  慶子は、黙っていた。 「一年間、他の女と付き合わなかったら、もう一度、おれと付き合ってくれるか?」 「どうして、私とそんなに付き合いたいの。他に女の人いるでしょ。魅力的な女の人が、いっぱい」  慶子が、初めてやさしい声を出した。 「そんなこと分からん」  正道は、ぶっきらぼうに言った。どうしてこんなに慶子に執着《しゆうちやく》するのか、自分でも分からなかった。逃げる獲物《えもの》は追いかけたくなる男の心理だろうか。でも、正道には、それだけではないような気がしていた。 「ほんとに出来たら、おれともう一度付き合ってくれ」  正道は、真剣に言った。 「いいわよ。付き合ってあげる」  慶子が、からかうように言った。正道が、女なしで一年も過ごせるなんて、慶子は全然信じていなかった。 「チャンネル男が、テレビなしで暮らせるの、一年間も?」     4 「この間の引っ越しの時も、お前に手伝ってもらったな」  荷物を片付けながら、正道は、誠に言った。 「前の前の時もだよ」  誠が、ダンボールを開けながら、言う。  前の前の時の引っ越しというと、十年前だから、正道と誠の付き合いも、結構長いことになる。その頃は、二人とも、中央テレビの新入社員だった。 「これ、なんだ?」  流しの下の棚から、誠は、紐《ひも》で縛《しば》った本を引っ張りだした。 「ダイエットの本ばっかりじゃないか?」  正道は、本の背表紙を見た。 『淋《さみ》しい女は太る』『幸せな家庭は太らない』『こんなにやせていいかしら』『我慢《がまん》しないで楽しくやせる』『眠っている間にやせなさい』『歩くだけでこんなにやせる』『美しくやせる十週間』  いろんなタイトルを思いつくものだと、感心してしまった。 「前に若い女が住んでたんじゃないのか、ここ」 「そうかも知れんな」 「どうする?」  誠は、本をぶら下げたままで言った。 「おれは、ダイエットなんか興味ないよ」  一メートル七十二で、五十八キロしかない正道は、むしろ太りたい方だった。 「オッ!」  誠が、ベランダで大きな声をあげた。 「どうした?」  正道も、ベランダに出て、思わず誠と同じような声をあげそうになった。  マンションはコの字型になっていて、正道の部屋の向かいに、隣の部屋のベランダがある。そのベランダに、申し訳程度の水着を着た若い女が立っていたのだ。海辺では、珍しくないハイレグの水着姿も、街中のマンションのベランダで見ると、ドキッとするほどまぶしかった。 「今日は!」  まぶしいハイレグが、愛想《あいそ》のいい声を出した。 「今日は!」  正道も誠も、思わず愛想のいい声を返していた。 「日光浴をしてたの」  白い裸が、ニッコリと笑う。 「そうなの!」  正道と誠も、同時にニッコリとした。 「隣《となり》のむつみです!」  白い裸が言った。 「隣の村田です」  正道が言った。 「お友達の宮本です」  誠が言った。 「お前、一年間、他の女に目もくれないって、慶子と約束をしたんだろうが」 「約束した」 「大丈夫だろうな」  誠が、窓越しに隣を指した。ハイレグ姿があまりに強烈で、正道も誠も、片付けをする気持ちがどこかに行ってしまって、ソファに座り込んで、カップラーメンをすすっていた。 「大丈夫《だいじようぶ》だ」  大丈夫かどうか、あのまぶしさでは自信がなかった。 「おれは、証人になると、慶子と約束したんだ……明日から、毎日ここへ来る」  誠は、恋人イナイ歴が、もう五年も続いている。 「分かったよ。隣の女は、お前にまかせる」  例えどんなにまぶしい体であろうとも、慶子と引換えにする気持ちは、今の正道にはなかった。     5 「引っ越したよ」  正道は、スタンドにいる慶子のそばに歩いていった。今日は、横浜スタジアムからの中継だった。スタジアムの各場所で、カメラのセッティングが終わろうとしている。  慶子たちスタッフは、一度局に集合して、いろんな機材を持って球場に来るのだが、ディレクターの正道だけは、家から直接球場に来ることが許されている。帰りも同様で、球場から直接に帰宅していいのは、ディレクターだけに許される特権だ。「直行直帰《ちよつこうちよつき》」と慶子たちは言っているのだが、準備が整《ととの》ったところに、自分の車や局のハイヤーで悠々《ゆうゆう》と乗り付けるディレクターは、スタッフの目には、いかにもカッコよく映って、慶子が、ディレクターになりたい気持ちの中には、そんな単純な動機も混じっていた。 「隣に、ハイレグの美人がいるそうね」  慶子は、もう、誠から聞いてるらしかった。 「おれは興味ない」 「あら、そう」 「おれは真剣なんだ」 「あら、そう」 「本気なんだ」 「いつまでもつかしらね」 「この三か月、おれは、誰ともデイトしていない」 「私は毎日デイトしてる」 「おれは、お前がほんとに好きなんだ」 「私は、あなたのことがほんとに嫌《きら》いなの」  ああ言えば、こう言う。 「あなたはね、私が逃げ出したものだから、追いかけたくなってるだけのことよ」 「そんなんじゃない!」  正道は、思わず大きな声を出していた。 「決まってるじゃないの」 「おれのことを勝手に決めるな」 「私、今日、デイトするの」 「誰と?」 「編成の前野さん」 「あんなやつと?……あいつは、女に手が早いって評判なんだぞ!」 「それを期待して、デイトするの」  慶子は、スタンドをあがって行った。 「おれが、こんなに頑張《がんば》ってるのに!」  正道は、思わず恨《うら》みがましい声を出していた。 「勝手に頑張ってるんじゃないの」  と、慶子は言って、飛び跳ねるように階段を駆《か》けあがっていった。憎《にく》まれ口を叩《たた》きながら、慶子は、どこか嬉《うれ》しそうだった。     6  慶子と約束をしてから、半年が過ぎた。  いままで、あっちの女、こっちの女と飛び跳ねていたチャンネル男が、女っ気なしで半年も過ごすのは、並大抵《なみたいてい》のことではない。テレビ漬《づ》けになっていた男が、突然テレビを取り上げられてしまったようなもので、正道は、夜を持て余してしまった。  正道が女を絶っているという噂《うわさ》は、局内にも広まった。その理由は、正道以外には、誠と慶子しか知らないことだったが、噂を聞いて、わざと美人を紹介しようという悪い同僚《やつ》も出てくる。バアに行くと、私が女絶ちを破ってみせると、本気とも冗談ともつかずに張り切るホステスも出てきて、正道は、前よりもっとモテるようになってしまった。  局の近くに『中央テレビ通り』というのがある。その横丁《よこちよう》に、スポーツ局の連中の溜《た》まり場になっている『ガス燈』というスナックがあって、色の白い、美由紀《みゆき》ちゃんというアルバイトの女の子がいる。ほっそりとした顔立ちなのだが、胸は充分《じゆうぶん》に盛り上がっていて、白いブラウスの前ボタンを一つ二つはずしたりしていると、思わずカウンター越しに身を乗り出したくなるほどの魅力がある娘《こ》なのだ。スポーツ局の連中のほとんどがアタックしていて、正道も、一、二度、デイトに誘《さそ》ったことがある。その時は、 「またね」  と、軽くかわされてしまったのだが、正道が女を絶っているという噂に、美由紀ちゃんは、どう刺激《しげき》されたのか、 「デイトしようか、村田さん」  と、向こうから誘ってきたのだ。  悪友やホステスの誘惑《ゆうわく》をかわしてきた正道だったが、美由紀ちゃんの誘惑には参ってしまった。思わず、慶子なんかやめて、こっちにしようと心がぐらついたのだが、危うく土俵際《どひようぎわ》で踏ん張って、 「ぼくには好きな人がいるんだ」  と、これまでの人生で言ったこともない、神妙《しんみよう》なセリフを吐いてしまった。  誘惑は、それだけではない。  せっかく隣の女から逃げ出して、新しいマンションに越したのに、そこにも隣の女がいて、これがまた、正道に迫ってくるのだ。  まぶしいハイレグ姿を見てから、誠も、毎日一度は正道のマンションに現れるのだが、四日目に、髪を短く切って、ジャージーのトレーナーを着た、一見田舎の高校の体操教師風なのが隣のベランダに現れて、 「変な人が見てるから、早く中に入りなさい」  と、せっかくまぶしい裸をみせてくれているむつみちゃんを、部屋の中に引き入れてしまったのだ。 「な、何だ、あいつは!?」  男は、一見だけでなく、本当に鹿児島《かごしま》の体操教師だった。ハイレグ姿のむつみちゃんは、その高校の生徒で、二人は在学中に男女の仲になってしまって、卒業と同時に東京に駆け落ちしてきたのだった。  在学中から、その素行《そこう》には多少の問題があったらしいむつみちゃんは、駆け落ちしてきて三年目だというのに、隣に越してきた正道に、何かとアタックしてくるのだ。いまでも、素行には充分に問題がある。  素行には問題はあっても、その容姿《ようし》にはまったく問題はなく、ストレートヘヤーに、切れ長の目がなかなかよく似合《にあ》って、近所のコンビニエンスストアでも、男子従業員たちの噂の的になっているむつみちゃんなのだ。 「へーい」  隣のベランダから、むつみちゃんが元気のいい声を出した。 「ヘーい」  正道も、ノリよく応《こた》えた。  女付き合いを止めた正道は、毎晩早く帰ってきて、時間を持て余していた。初めのうちは、局の連中と飲みにいったりしていたのだが、一緒に行った局の女子社員が、酔っぱらって、 「村田さんと一緒に帰る」  と、言い出したり、バアのホステスが、自分の魅力で正道の女絶ちを破ってみせようと頑張《がんば》ったり、アルバイトの美由紀ちゃんが、色っぽく正道に迫ったりしてくるので、その誘惑を撥《は》ねのけるのに疲れて、正道は、だんだん局から「直帰《ちよつき》」するようになってしまった。  正道の夜の相手は、もっぱら近所のレンタルビデオ屋で、今評判のAVギャルとは、ほとんどお付き合いしてしまった。 「ねえ、飲む?」  向こうのベランダから、むつみちゃんが缶ビールを差し出した。今日は、ハイレグの水着姿ではなく、さっぱりとした花柄《はながら》のワンピースを着ている。そんな恰好をすると、むつみちゃんは、素行にはまったく問題のない清楚《せいそ》な娘に見えて、正道は、 「飲む!」  と、思わず大きな声で答えてしまった。 「じゃ、そっちに行く」  と、むつみちゃんは、缶ビールをワンピースのポケットにねじ込むと、いきなりベランダの柵をまたいで、正道の方に来ようとするのだ。 「危ない!」  隣の部屋との間には、ルームクーラーの室外機を置くスペースがある。そこのところを器用にまたいで、むつみちゃんは、アッという間にこっちに来てしまった。 「へーい」  むつみちゃんが、正道にビールを手渡しながら言う。小柄《こがら》なむつみちゃんだが、正道を見上げる目の動きがなかなか可愛いい。せまいベランダだから、正道とむつみちゃんは、くっつくように立つしかなく、むつみちゃんの甘い体の匂《にお》いが、正道の鼻孔《びこう》を刺激するのだ。正道の頭の中に、慶子との約束がかすめたのだが、これはデイトではない、隣近所のお付き合いだと心に言い聞かせて、 「ヘーい」  と、またまたノリのいい返事をしてしまった。 「何してる人?」 「テレビ局に勤めてる」 「どこのテレビ?」 「中央テレビ」 「見てる!」 「旦那《だんな》は?」 「旦那だって、やーだ」 「そうなんだろ」 「まあ、似たようなものだけど……」  若いむつみちゃんには、旦那という言葉は実感がないらしい。 「何してる人?」 「塾《じゆく》で教えてるの」 「元先生だって?」 「そう」 「むつみちゃんは何してるの?」 「代官山《だいかんやま》のブティックに勤《つと》めてる」 「ハウスマヌカン?」 「よく知ってる! さすがテレビ局」 「駆け落ちしてきたんだって、鹿児島から?」 「よく知ってる。さすがテレビ局!」 「そこのコンビニエンスで噂の的なんだよ」 「私たちが?」 「きみが」 「やーだ」  むつみちゃんは、嬉《うれ》しそうに笑った。 「彼が補導係《ほどうがかり》の先生で、むつみちゃんが不良少女だったんだって?」 「そう」 「そんな恰好してると、とても不良には見えない」 「でも、すっごく不良なんだ、私って」 「補導してるうちに、彼の方が、むつみちゃんの誘惑に負けてしまったんだって?」 「そう……あいつも不良しちゃったの」 「むつみちゃんの魅力に負けて」 「やーだ」 「そうなんだろ?」 「私、魅力ある?」 「あるある」 「すっごく?」 「すっごく」 「見たい、私の魅力?」 「見たい、見たい」 「中に入っていい?」  むつみちゃんは、どんどん行動してくる。行動力のある女の子というのは、日本では、往々にして素行に問題があるとされてしまうのだ。でも、少しは問題があるのかもしれない、むつみちゃんは。 「中に入ろ?」 「…………」  正道の方が、黙ってしまった。 「どうしたの?」 「ダメ」 「どうして?」 「…………」 「やっぱり、私には魅力がないんだ」 「そうじゃない」 「じゃ、どうして?」 「魅力があるから困るんだ」 「じゃ、入る」 「きみには、彼という人がいるじゃないか」  正道は、またまた今までの人生で言ったことのない神妙《しんみよう》なセリフを吐いてしまった。 「だって、あいつ面白《おもしろ》くないんだもの……顔が合うと、説教するんだよ、私に」 「元先生だもの」 「可哀《かわい》そうなんだ、私」  むつみちゃんは、正道にもたれかかってきた。この積極的な誘惑に、正道は、またまたグラグラとしたのだが、もう十か月も守ってきた慶子との約束が、こんなことでオジャンになってはと、震度《しんど》七の激震にもじっと耐《た》えて、 「彼を裏切るようなことをしてはいけない」  と、正道も、補導係の先生になってしまった。     7  正道が、誘惑の地震や嵐に耐えているというのに、慶子の方は、ますます生き生きとしてきて、正道と顔が合うたびに、 「今日はデイト」 「明日もデイト」  と、嬉しそうな顔で言うのだ。  局の人間たちと、仕事の後で遊びにいったりしてるのも、デイトのうちには含《ふく》まれているらしいのだが、デイトらしいデイトも確かにしてるらしい。 「おれが、こんなに苦労してるのに!」  と、正道が文句を言うと、 「勝手に苦労してるだけじゃないの」  と、慶子は涼しい顔で言う。 「あんなやつのために、何でこんなに我慢《がまん》しないといけないんだ!」  今日もデイトしてるのではないかと、家に帰ってきてから慶子のところに電話をすると、案《あん》の定《じよう》、まだ帰ってない。高校時代の友達とデイトだと言っていたなと、ヤキモチも混じって、正道は、十分に一度はダイヤルをプッシュしてしまった。慶子が、電話に出たのは、十二時近くになってからだった。 「何してたんだ、今頃まで」 「デイト」 「いいかげんにしろ」 「何が?」 「おれは、お前のためにこんなに我慢してるんだ」 「いやなら、やめれば」 「もっとやさしい口をきけないのか」 「やさしい男には、やさしい口をきいてるわよ」  ああ言えば、こういう。口は憎《にく》たらしいが、その反応の速さが、慶子の魅力でもあるのだ。 「後、一月だぞ」  憎まれ口を叩《たた》いていた慶子が、初めて黙りこんだ。 「後、一月したら、おれとデイトするな?」  慶子は、黙ったままでいた。 「約束じゃないか!」  正道は、思わず大きな声を出していた。 「するわよ」  慶子が、どうでもいいような声で答えた。 「好きなやつでも出来たのか?」  正道は、不安になった。考えてみると、正道の方が誘惑を払いのけている間に、慶子が誘惑を受け入れてしまうということは、充分にあり得ることなのだ。 「出来たのか!」 「関係ないでしょ」  慶子が、そっけなく言う。 「関係ないってことないじゃないか! おれは、お前のためにこんなに苦労してるんだ!……少しは、おれの身にもなってみろ!……おれだけに苦労をさせて、その間に好きなやつを作るなんて、そんなことをしていいと思ってるのか!」  女から女へと飛び回っていたチャンネル男が、こんな情けないセリフを吐くようになってしまったのだ。 「デイトしてあげるわよ、後一月したら」  好きな人が出来たとも出来ないとも言わずに、慶子は、電話を切ってしまった。 「慶子に恋人が出来たと思うか?」  正道は、誠をつかまえて聞いた。 「ほんとか!?」  誠が驚いた声を出した。 「こっちが聞いてるんだよ」  誠は、真剣な顔で考えていたが、 「慶子、このところ、いろんなやつとデイトしてたからなあ」 「やっぱり!」 「編成の遠藤……制作の中山……営業の松村……技術の加藤……前から、慶子に気のあったやつと、かたっぱしからデイトしてるんだよ……その他にも、高校の同級生とか、大学時代の友達とか、いろいろいるらしい」 「そんなにデイトしてたのか?」 「お前とのことがあってから、慶子は、変わった」 「誰だと思う?……もし、慶子に、好きなやつが出来たとしたら」 「編成の遠藤……あれは、前から、慶子に気があったから」 「ダメだ、あれは。あれは、編成の色魔《しきま》だ」 「技術の加藤……あいつは、地道《じみち》に慶子に親切にしてたからなあ。ひょっとしたら、ひょっとする」 「うーん」  技術の加藤というのは、音声の担当なのだが、地味だが誠実な男で、スタッフの中でも人望がある。スポーツ局のディレクターという一見派手なポジションにいる慶子だが、恋人に選ぶのは、案外地道に生きている人間のような気がしてきた。  一度気になると、だんだんその気になってきて、家に帰って『美女七人冬物語』というアダルトビデオを見ていると、あられもなく悶《もだ》えているAVギャルが、ふっと慶子と技術の加藤のように思えてきて、なんだかじっとしていられなくなってきた。  考えてみると、慶子も、チャンネル男だった正道に対して、同じようにじっとしていられない思いを抱いていたのかも知れない。突如《とつじよ》として関西弁で啖呵《たんか》を切った時の慶子の気持ちが、今になって、よく分かるような気がしてきて、正道は、『美女七人冬物語』を見るのをやめにしたのだ。 「後一月だぞ、慶子。覚悟《かくご》しておけ!」  その時は、目にものを、いや唇にものを言わせてみせると、正道は、そばにあったクッションを抱き締めて、強く接吻《せつぷん》した。 「う……」  次の瞬間、正道は、慌《あわ》ててクッションを離してしまった。  慶子に見立ててキスをしたクッションが、変に生々しい感触《かんしよく》を口に伝えてきたのだ。  女の唇にキスをしたときと、同じ感触だった。  正道は、改めてクッションを見た。近所のダイエーで買ってきた、何の変哲《へんてつ》もないクッションである。  正道は、もう一度、今度は恐る恐るキスをした。木綿《もめん》のさっぱりした感触がしただけで、さきほどの生々しい感触なんかまったくなかった。 「うちのクッションで感じてしまった」  あくる日のボクシング中継の時に、誠に言うと、 「お前、大丈夫か?」  と、誠は心配そうな顔をした。 「女を絶って、もう大分なるからなあ」 「ほんとに感じたんだ」  と、言いながら、あまりに慶子のことを思いすぎて、その唇の感触まで思い出してしまったのかと、正道は、心の中で苦笑《にがわら》いしてしまった。でも、クッションが伝えてきた感触は、慶子の唇よりも、ずっと柔らかかった。  中継車のモニターでは、前座《ぜんざ》の四回戦ボーイの試合が終わって、第二試合が始まっていた。中継は、メインイベントだけで、技術パートが機械の具合を調整中であった。  ラウンドが終わって、ボクサーたちが、コーナーに退いた。それに代わって、スラリとした足のラウンドガールが、次は三ラウンドと書いたプラカードを掲《かか》げて、リングに上がってきた。隣のむつみちゃんより、もっと激しいハイレグ姿である。正道も誠も、一瞬話をやめて、モニターに映るラウンドガールのハイレグの切れ込みに見入ってしまった。  ラウンドガールがモニターから消えて、二人は、同時に溜《た》め息《いき》をついた。 「おれは、もう十一か月も女っけがないんだ」  正道が言った。 「おれは、もう、五年も女っけがない」  誠も言った。     8  正道がクッションで感じてしまった日から、マンションの部屋で、不思議な現象が起きるようになった。  正道が冷蔵庫を開けると、昨日までいろいろと入っていたはずの冷蔵庫が、ガランとしている。生うどんも入っていたはずだし、インスタントラーメンも入っていた。キムチもまだ残っていたはずだし、ローマイヤのソーセージも手つかずで残っていたはずなのだ。それに、缶ビールも、確か三本、入っていた。 「お前、昨日、おれのところに来たのか?」  局に行って、誠に聞いた。無断で、正道の部屋に入ってきそうなのは、誠くらいしかいない。 「行かないよ。第一、おれは、お前のところの鍵《かぎ》なんか持ってない」 「そうだな」  ひょっとしたら、慶子かも知れないと、正道は思った。 「私、鍵なんか持ってないわよ」 「合鍵《あいかぎ》を作ったんだろうが」 「合鍵で、他人の部屋に入ったりしたら、泥棒じゃないの」 「泥棒が入ったんだよ、おれの部屋に」 「私を泥棒にしないでよ」 「じゃ、誰が入ったんだ」 「知らないわよ、私は」  留守中に、正道の部屋に入ってきて、冷蔵庫のものを食い散らすなんていうイタズラは、慶子のしそうなことではなかった。  ひょっとしたら、隣のむつみちゃんかも知れないと、正道は思った。むつみちゃんはベランダづたいに来るのが得意だし、正道の部屋のベランダの鍵は、掛け忘れていることが多いのだ。  エレベーターで乗り合わせた時に、正道は、むつみちゃんに聞いてみた。 「おれの部屋に来たことある?」 「いつ?」 「おれのいない間に」 「そんなことしないわよ、私は!」  むつみちゃんは、お尻を振って、エレベーターから降りていった。 「きみは、うちのむつみを泥棒よばわりする気ですか」  その夜遅く、隣の元教師が、正道の部屋に抗議にきた。 「泥棒よばわり?」  一瞬何のことか分からなかった。 「留守中に部屋に入ってきただろうって、むつみを詰問《きつもん》したそうじゃないですか」  詰問なんてしていない。 「そんな意味じゃないんです」 「どんな意味か答えなさい」  元でも、教師は教師だった。 「別に深い意味はないんです」 「きみは、うちのむつみを誘惑《ゆうわく》しようとしたそうですね」 「誘惑なんかしない!」  正道は、慌《あわ》てて言った。 「むつみに、部屋に入れとしつっこく迫《せま》ったそうじゃないですか」 「迫ったのは、向こうじゃないですか!」  正道は言ってしまった。女の方が迫ったなんて、自分からは言ったことがなかった正道だったが、濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》を晴らすためには仕方がない。  元教師は、急に黙ってしまった。 「むつみの方が迫ったんですか?」  神妙《しんみよう》な顔になって聞いてきた。 「いや……迫ったっていうほどのことではないけど……」 「失礼をいたしました」  元教師は、丁寧《ていねい》すぎるほど頭を下げて、正道のところを去っていった。  そのすぐ後で、元教師とむつみちゃんが言い争うのが、正道の部屋から見えた。  自分のせいで喧嘩《けんか》になって、申し訳ないような気がしたが、別に自分が何をしたわけでもない。あったことを正直に言ったまでのことだ。素行《そこう》に問題があるのは、むつみちゃんの方なのだ。  元教師は、大きな声でむつみちゃんに言い聞かせていた様子だったが、最後にフライパンで頭をぶっ叩《たた》いたのは、むつみちゃんの方だった。 「カーン」  窓越しに音が聞こえてきそうなほど、見事な叩きぶりだった。  正道も思わず身を乗り出したが、じゅうたんにしゃがみこんでしまった元教師の頭を、むつみちゃんが撫《な》でたりさすったりしているうちに、元教師がガバッとむつみちゃんを抱きしめて、じゅうたんの上に押さえ込んで熱烈なキスをしはじめたので、バカバカしくなって、カーテンを閉めてしまった。  十二か月女っけなしの身にとっては、刺激的な光景だった。 「ウワッ!」  カーテンを閉めて、部屋の方を振り向いた正道は、思わず大声を上げた。  いつのまに入ってきたのか、リビングのソファに、若い女が座っていたのだ。  軽くウエーブのかかった肩先までのヘヤーに、化粧のせいか、いやに大きな目をしている。  その目が、正道の方をじっと見ていた。 「な、なんだ、お前は!」  若い女は、正道を見つめて、ニッコリと笑った。ぼってりとした柔《やわ》らかそうな唇をしてるが、下がり気味の口の端が、どこか不幸そうな陰も漂《ただよ》わせている。 「何をしてるんだ、そんなところで」 「あなたが出てこいって言ったんじゃないの」 「出てこい?」 「そうよ」  女が、またニッコリとした。二十代の後半だろうか、でも、笑うと、十代のような無邪気《むじやき》な顔になる。 「おれは、そんなこと言わない」 「したじゃない、熱烈に?」  女が意味ありげに笑った。 「な、何をしたんだ?」  正道は、だんだん気持ちが悪くなってきた。一体、この女は、何を言ってるんだ。どこから来たんだ。 「感じたでしょ?」 「な、何を」 「キスしたじゃない?」  女が、また笑った。 「そんなことしない!」 「したくせに。だから、出てきたのよ、私」  女が、また笑う。 「お前、一体どこから来たんだ?」 「私は、ずっとここにいたわよ」 「ここって、どこだ」 「ここって、ここ」 「お前、頭がおかしいんじゃないか?」  頭のおかしい女が、何かの間違いで部屋に入ってきたのだと思った。 「失礼な」 「ひとの部屋に勝手に入ってきて……出ていってくれ」 「ここは、私の部屋よ」 「ここは、おれの部屋だ」 「私の部屋だったの」 「あ……」  正道は、思い当たった。捨てようとして、まだ、そのままになっているはずだと、ベランダの隅《すみ》から、紐《ひも》でむすんだダイエットの本を持ってきた。 「これ、ひょっとして、お前のか?」 「そんなもの捨ててよ」  若い女が怒ったような声を出した。そんな本を持っていたことが恥《は》ずかしいらしい。でも、女は、ダイエットの本が必要なほど太っては見えなかった。 「お前、前にここに住んでたのか?」 「そう……」 「ここの合鍵を持ってるのか?」  それで、こっそり部屋に入ってきたのだと思った。冷蔵庫のものを無断で食べたのも、この女に違いない。 「そんなもの持ってないわよ」  若い女は、台所の方に立っていった。 「何か食べるものない?」  と、勝手に冷蔵庫を開ける。 「この前、冷蔵庫のものを全部食ったの、お前なのか?」 「そう」  女は、冷蔵庫から缶ビールを出すと、慣れた手付きで栓《せん》を開けた。グビリと一口飲んで、チーズにかぶりついた。 「おいしいじゃない、このチーズ」  まだ冷蔵庫の中を物色《ぶつしよく》している。 「ひとのものを勝手に食べて……」 「私ね、ずっとダイエットをしてたから、食べたいものも食べられなかったの」  冷蔵庫の中に半分残っていたスパニッシュ・オムレツを、ペロリと口に入れてしまった。 「これ、誰が作ったの?」 「おれが作った」 「へーえ、なかなかやるじゃない」  ビールを飲みながら、まだ冷蔵庫の中を覗《のぞ》き込んでいる。 「食べたいものも我慢《がまん》して、損《そん》しちゃった……今は、いくら食べても太らないんだ」  フランクフルトが一本残っていたのを、アッという間に食べてしまった。 「これ、持って帰ってくれ」  女がだんだん得体《えたい》の知れないものに思えてきて、正道は、女に、ダイエットの本を押しつけた。 「そんなもの、もういらない」  女は、流しの上に置いてあった食パンを、勝手にトースターに入れた。 「いちごジャムある?」 「頼むから、帰ってくれ」 「どこへ?」 「自分の家にだ」 「ここが、私の家」  ケロリとした顔で言う女に、完全に頭がおかしいのだと、正道は、気味が悪くなってきて、 「出ていかないと、警察を呼ぶぞ。これ持って、すぐに出ていってくれ」  と、本を強く押しつけた。  その弾《はず》みで、むすんであった紐がほどけて、本がバラバラになって床に落ちた。拾《ひろ》おうとすると、本の間にはさんであったらしいカラー写真が一枚、床に落ちている。  正道は、写真を拾いあげた。丸い顔の、ぽっちゃりとした女が写っている。横幅は、今よりもずっと広いが、口許《くちもと》や目の印象が女のものであった。 「これ、お前か?」  パンにいちごジャムを塗ろうとしていた女の前に、正道は、写真を突き出した。 「見ないでよ、こんなもの」  女が、写真をひったくった。太っていた頃の写真を、ひとに見られたくないらしい。 「お前、そんなにデブだったのか?」  女が、正道を振り返った。その顔を見て、怒らせたなと思った瞬間、部屋の中のものが風に吹き上げられたように、舞い上がった。 「な、なんだ!」  ベランダの窓が開いたのかと、正道は振り返ったが、窓は閉まっている。風が吹き込んでくるような隙間《すきま》はないのに、部屋の中のものだけが勝手に舞い上がっている。  正道は、女の顔を見た。  女は平気な顔で、 「デブっていうと承知しないからね。私は、その言葉を聞くのが大嫌《だいきら》いなんだから」  部屋の中の嵐は、女が引き起こしたものらしかった。 「お前、一体、何者なんだ?」  正道は、息を詰めて女の顔を見つめた。  この女は、普通の人間ではない。     9 「私、宝くじで五百万も当たったのよ、五百万も」  女が、そんなことを話しだした。 「やっと人生がツイてきたところだったのよ。ロクなことがなかった私の人生に、やっと運が向いてきたところだったのよ……それなのに、私は、そのお金が使えないままに死んじゃったのよ」 「何!?」 「五百万あれば、世界一周だって出来るし、洋服だって、アクセサリーだっていっぱい買えるじゃない。それなのに、その五百万は、私のお葬式代になって、そのあまりで、慰安《いあん》旅行だっていって、家族みんなでハワイに行ったのよ」 「死んだって……お前!?」 「そうよ」 「お葬式って、お前、ひょっとして……」 「そう……私は、お化《ば》け」  ジャムのついたトーストを食べながら、女は、ケロリとした顔で言った。  言う方はケロリでも、聞く方は、そうはいかない。正道は、言葉もなくなって、女を見つめた。  女は、どこといっておかしいところはない。足だってちゃんとある。でも、風もないのに、部屋の中のものが舞い上がったこと、玄関の扉《とびら》は閉まっていたはずなのに、いつのまにか女が部屋にいたことは、理屈《りくつ》では説明出来ないのだ。  女は、ジャムのついた唇をなめている。お化けが、こんなことをするだろうか。でも、正道は、今までお化けに会ったことはないから、お化けが何をして何をしないか、言い切れるだけの自信はない。  正道は、引き込まれるように女を見つめてしまっている自分に気づいて、ハッと我に返った。 「出ていってくれ。お前は、やっぱり頭がおかしい」  正道は、女を廊下に押し出した。お化けなら、ひんやりするはずなのに、なま温かい体をしている。こんなお化けがいるものかと、正道は、女を廊下の方に突き出していった。 「どこから来たのか知らないけど、とにかく出ていってくれ」 「ハハハハ……やめて……くすぐったい……」 「お化けがくすぐったいわけないだろうが」  正道は、ドンドン押した。 「私は、生きている時も、人一倍くすぐったがりだったんだから……ハハハハ……やめて……ハハハハハ」  笑っているうちに、女の体が、フワリと宙に浮いた。 「ハハハハハ……」  どんどん天井に浮かんでいく。  正道は、唖然《あぜん》として、廊下に浮かんでいる女を見上げてしまった。     10 「おれの部屋にお化けがいる」  次の日に、正道は、中継車《ちゆうけいしや》に駆け込んで、誠に言った。 「お化け!?」 「前に住んでた女が、化けて出てきたんだ」 「大丈夫か、お前?」  スイッチングパネルのボタンの調整をしていた誠が、あきれたような目で正道を見た。 「お前、ずっと女っけなしで過ごしてきたから……」 「そんなことじゃない。おれの部屋に、本当にお化けがいるんだ」  正道は、誠を資料室に引っ張っていった。 「あの日だ。一年前のあの日……ホラ、西武近鉄戦の中継をやってた日」  正道には、思い当たることがあったのだ。中継前に、誠と細かい打合せをしていた時、モニターに放映中のニュースが映《うつ》った。  恵比寿《えびす》のマンションで、ゴミを捨てに裏口に降りた若い女が、人生に自信を失って屋上から飛び下りた浪人生の下敷きになった。死にたかった浪人生の方は、全治一か月ほどの怪我《けが》ですんだが、ゴミを捨てにきていただけの若い女の方は、全身を打って即死してしまったのだ。 「不運なやつだなあ」  モニターを見ながら、正道も誠も、思わず言ったのだ。 「おぼえてるだろう、あの事件!」 「おぼえてる」  資料室の係員に、その日のニュースのテープをもらってきて、VTRにかけた。 「昨夜、午後十時頃、目黒《めぐろ》区恵比寿《えびす》のマンションの屋上から、浪人生が飛び下り自殺を図りました。浪人生は、たまたま下にいたマンションの住人の門脇亜由子《かどわきあゆこ》さん、二十七歳の頭上に落下し、門脇さんは即死、飛び下りた浪人生の方は全治一か月の大怪我でした……」  アナウンサーの声と共に、若い女の写真がブラウン管に映った。 「これだ、これ! この女だ!」  正道は、興奮《こうふん》して叫んだ。ブラウン管に映った女は、まさに昨夜の女だったのだ。 「私は死んだのよ」  女の言ったことは、嘘《うそ》ではなかったのだ。  門脇亜由子という女の住んでいたマンションの住所は、正道が越していったマンションと一致していた。 「ホラ、おれの部屋じゃないか。この女が住んでるの、おれの部屋じゃないか」  正道がいくら力説しても、お化けの存在を、そう簡単に認めるわけにはいかない。自分の目で確かめてみると、誠は、正道の部屋に行くことになった。 「出たか?」  スポーツニュースの編集で、局に残っていた正道が電話をすると、 「出るわけないだろう……いてやるよ……お化けが出るまで、何時間でもここにいてやるよ」  誠の、のんびりとした声が返ってきた。  スポーツニュースの放映を終えてから、もう一度電話をすると、居眠りをしていたらしい誠が、寝ぼけ声で電話に出てきて、 「全然、何も出ず……隣のむつみちゃんが、肉まん持ってきてくれただけ……色っぽいな、あの子……あんな男にはもったいないよ」  と、電話口で大きなあくびをした。 「ひとをからかうのもいいかげんにしろよな」  正道がマンションに帰ると、顔を見るなり、誠が言った。 「からかったわけじゃない。ほんとに、前に住んでいた女が化けて出たんだ。デブって言うと、怒って部屋の中をメチャクチャにしたし、くすぐると宙に浮いたんだ」 「ほんとに大丈夫か、お前?」  誠は、心配そうな顔で帰っていった。 「出てこい!」  誠が帰ってから、正道は、ソファに向かっていった。お化けの女が部屋のどこにいるのか、正道には分からない。一度は、ソファのクッションのところにいたのだからと、正道は、何度もソファに向かって、 「出てこい!」  と、大声を上げた。  しかし、何の変化もない。  ふと見ると、隣の部屋から、元教師がじっとこちらを見ている。カーテンが開けっぱなしになっているから、部屋は丸見えである。いい年をした男が、ソファに向かって、大声を張り上げていたら、誰だって不思議に思うだろう。ガラス戸は閉まって、正道の声は隣までは届いていないから、なおのこと不思議に思うかも知れない。深夜に、ソファに語りかける三十男というのは、そっちの方が怪談に近い。  元教師は、むつみちゃんまで呼び寄せて、一緒になってこっちを見ている。  正道は、仕方なく、ベランダに出ていって肉まんのお礼を言うと、元教師は、恐ろしいものでも見るように、むつみちゃんを体の後ろに隠して、さっとカーテンを閉めてしまった。  その時に電話が鳴った。  慶子からだった。     11 「明日で、ちょうど一年ね」 「何の?」  正道は、思わず聞いてしまった。  誰ともデイトをしないと慶子と約束してから、明日で丸一年なのだ。正道にとっては、待ちに待った日で、ついこの間までは、一日一日と日を数えていたのに、お化けの出現で、すっかり忘れてしまっていた。 「忘れてたの?」 「いや、そんなことはない」 「あなたにとっては、その程度のことだったのね」  慶子が冷たい声になった。正道だけではなく、慶子にとっても、待ちに待った日だったのかも知れない。 「それどころじゃないんだ。おれの部屋にお化けが出たんだ」  正道は、慌《あわ》てて言った。 「お化け?」 「前に住んでいた女が、化けて出たんだよ」 「ふざけないでよ」 「ふざけてなんかない」 「女が出来たんでしょ、やっぱり」 「何!?」 「女が、そこに来たんでしょ……それをお化けだなんて言って、ごまかそうとしてるんでしょ」 「そんなんじゃない。お前のために一年も我慢して、今になって、どうして女なんか作るんだ」 「我慢しきれなくなって……」 「そんなんじゃない!」 「私より、ずっといい女が現れて……」 「そんなもの現れない! そんなこと言うのなら、明日、おれのところに来い」 「行ったら、どうなるの?」 「ここにお化けがいるってことを証明してやる」 「どうやって?」 「そんなこと分からない……とにかく、明日、ここへ来いよ」 「せっかくの記念日だから、どこかで食事しようと思ってたの」  慶子は、その日のことをいろいろ考えていたらしかった。正道も、嬉《うれ》しくなって、 「じゃ、どこかで食事をしよう。その後で、おれのところに来いよ」 「分かった」 「何が?」 「私を部屋に呼びよせるために、お化けのことを思いついたんでしょう?」 「そんなんじゃない」 「いきなりは、イヤ」 「いきなりって……」 「その日にすぐは、イヤ」  一年たったからといって、すぐ正道との関係が復活するのはイヤだと、慶子は言っているのだ。でも、その日でなければいいと、言っているようなものだ。 「何かするために、おれの部屋に来いと言ってるんじゃない」  正道は嬉しくなっていった。この女のために、一年待ったかいがあったと思った。 「じゃ、どうして?」  これ以上、お化けのことを言っても信じてはもらえないと、 「どこで食事をしようか……」  と、話題を変えて、何気なくキッチンの方を見ると、誠が持って帰って、まだ二個ばかり残っていた、隣《となり》からの届けものの肉まんが、すっと宙に浮いている。  正道は、一瞬言葉を呑《の》んだ。 「どうしたの?」  正道の驚きが、慶子にも伝わったらしい。 「出たんだ」 「何が?」 「お化けだよ……肉まんが宙に浮いてる……あ、だんだんなくなっていく……お化けが肉まんを食べている!」 「ふざけないでよ!」  宙に浮いた肉まんが、完全に消えてしまった。二個目の肉まんが、宙に浮いた。 「おい、そんなに食うな。ひとつくらい、おれに残しとけ」  正道は思わず言った。 「誰かいるの?」 「お化けがいる」 「女の人がいるんでしょう、ほんとは」 「そんなものいない。ほんとに、お化けが肉まんを食べてるんだ」 「ふざけないでよ」  慶子が、ガチャンと受話器を置いてしまった。その時には、二個目の肉まんも、完全に消滅してしまっていた。 「おれの食うのが、なくなったじゃないか!」  正道は、宙に向かって怒鳴《どな》った。肉まんが消えてしまうと、どこにいるか分からない。 「出てこい!」  正道は、怒鳴った。 「ひとの肉まんを勝手に食って、姿くらい見せたらどうだ!」 「そんなに大きな声出さないでよ」  後ろから、女の声がした。振り向くと、満足そうな顔の亜由子が、ソファに座っている。 「おいしいじゃない、この肉まん……また買ってきてよ……あ、ビール、飲もう」  亜由子は立っていって、冷蔵庫のドアを開けた。 「ビールないの?」 「お前が全部飲んだんじゃないか!」 「何にもないじゃない」 「牛乳を飲め」 「牛乳は嫌い」 「お化けにも好き嫌いがあるのか?」 「当たり前じゃないの。ねえ、食べるものないの」 「ない!」 「食べても食べても、お腹が空くんだもの」  亜由子は、冷蔵庫にたった一本残っていた古いバナナまで口に入れた。 「誠がいた時に、どうして出てこなかったんだ」 「誠?」 「さっきまでいただろうが」 「ああ……あの人は私の好みじゃないもの」 「好みとか好みじゃないとか言ってる場合じゃない!……ちゃんと、人前に出て、お化けがいるってことを証明してくれないと、おれの立場がなくなるんだ」 「立場って?」 「明日、慶子が来る……その時に、お前がお化けだってことをちゃんと証明してくれ」 「慶子?」 「おれの恋人だ」 「そんなものいるの」 「当たり前だ」 「ふーん」 「彼女のために、おれは、一年間誰ともデイトしなかったんだ。明日は、その記念日なんだ。この部屋に、女がいるなんてことになったら、いままでの努力が水の泡《あわ》なんだ。お前が、お化けだってことを、ちゃんと慶子に証明してくれないと困るんだ」 「知らないわよ、そんなこと」 「知らないってことないだろうが」 「関係ないじゃない」 「お前は、おれの部屋に出てきてるんだろうが」 「ここは、私の部屋よ」 「おれの部屋だ」 「前から住んでたのは、私だもの」 「お前は死んだんじゃないか。死んだら、権利はない」 「先住権《せんじゆうけん》ってものがあるじゃない」 「お化けに先住権があるか」  話しながら、変な会話をしてるなと、正道は思った。お化けと会話をしてるのだから、仕方がない。 「彼女を呼んで、何をするの?」 「別に何もしない……とにかく、おれにとっては、一年間待ちに待った日なんだ」 「私の目の前でイチャイチャしたら、承知しないからね」 「お前と関係ないじゃないか」 「男と女とがイチャイチャするの、私は大嫌いなの……何よ、あっちでもこっちでもイチャイチャして……知ってる、隣のカップル? 三日に一度はセックスしてるのよ」 「お前、隣の部屋にも行ってるのか?」 「ここだけじゃ退屈《たいくつ》だもの」 「じゃ、いっそどっかに行ってしまってくれ」 「ここは、私の部屋だもの」 「おれの部屋だ!」  と、正道は言いながら、明日は、ここには慶子を連れてこない方がいいと思った。このお化けを、どこかにやってしまうまでは、慶子を、この部屋に連れてこない方がいい。     12  恵比寿駅近くの駒沢《こまざわ》通りにある小さなイタリア料理店で、正道は、慶子と食事をすることにした。他の女とデイトをしないと約束してから、ちょうど一年目の夜である。  そのイタリアンレストランは、正道と慶子が、初めてふたりだけの食事をした店でもあった。  そこを指定してきたのは、慶子である。正道のマンションからすぐのところだから、正道の部屋に寄っていくことになる確率は多い。それを、慶子は承知しているのだろうか。それとも、期待しているのだろうか。  銀座かどこかで食事をして、バアで一杯やって、そのまま慶子を送っていこうと思っていた正道は、慶子が部屋に寄る確率が多くなってきて、逆に慌てた。本当なら、正道の方も願っていたことだし、慶子が、どこかでそれを期待していることはとても嬉しいのだが、今は事情が違う。慶子が部屋に来て、亜由子のことを、本物の女だと思ったりしたら、一年の我慢が水の泡になる。慶子の方から部屋に行ってもいいというそぶりを見せているのに、正道の方がためらったりしたら、ただでさえ疑いを持っている慶子は、部屋に女がいると思い込んでしまうだろう。 「出てくるなよ。今日は、絶対に出てくるなよ」  その日、局に出る前に、正道は、亜由子に呼びかけた。呼びかけたと言っても、相手は姿が見えない。どこにいるのか分からないのだから、空気に向かって話しているようなもので、頼《たよ》りなくて仕方がない。部屋のあちこちに向かって、 「お願いだから、出てこないでくれ」  と、話しかけていると、向いのベランダから元教師がじっと見ていた。塾《じゆく》の先生だから、午前中は家にいるのだ。  正道は、慌てて、空気に話しかけるのを止めた。この間から、元教師は、正道のことを不審に思っている。エレベーターで会った時も、何かおぞましいものでも見るような目で、正道から離れて立っていた。 「うちにはお化けがいるんです」  よっぽど言ってやろうかと思ったが、目も鼻も口も整《ととの》っているわりには泥くさい印象しかない元教師が、ますます正道のことをおぞましく思うのは分かりきっていたので、黙っていた。  真面目くさったこの顔で、ハイレグのむつみちゃんと週に二回もセックスしてるのだろうか。この男は。  七時に、正道は、慶子とイタリア料理店で待ち合わせた。  イタリアンレストランは、今、やたらと増えてきて、人目を引くようなインテリアや、洒落《しやれ》た外観の店も多くなってきている。イタリア料理のことを、イタメシなど通ぶる言い方をする人もいるくらいだ。  でも、ここは、赤と白のチェックのテーブルクロスがかかった、昔からあるレストランだ。イタリアンレストランなんていうよりも、イタリア料理店と言った方が似合《にあ》う店の雰囲気《ふんいき》なのだ。でも、かけだしのイタメシ屋にはかなわないくらい、パスタも料理もおいしくて、予約をしておかないと、六時にはテーブルがいっぱいになってしまう。  少し値の張るバローロの赤ワインを注文して、二人は乾杯《かんぱい》をした。一年間、辛抱《しんぼう》してきたのだ。いつもより、二倍も値の張るワインでも、正道は高いとは思わなかった。 「ワインは、私が払うから」  と、慶子が言った。慶子も、やはり、今日の日を楽しみにしていてくれたらしいことが分かって、正道は嬉しくなった。  いろんな誘惑に負けずに、頑張《がんば》ってきてよかったと思った。慶子よりも、隣のむつみちゃんの方がずっと色っぽい。『中央テレビ通り』の美由紀ちゃんの方が、色も白く、胸のふくらみも魅力的だ。でも、正道にとっては、今の慶子はかけがえのない女になっていた。最初は、遊び半分だったのに、慶子のために他の女との関係を絶つなんてことは思ってもみなかったことなのに、どうしてこんな気持ちになったのだろうと、自分でも不思議な気がする。  正道の気持ちが通じているのだろうか、慶子も、どこか華やいでいる。いつもはジーンズで走り回っている慶子が、今日は、ぐっと女っぽいフレアスカートをはいてきている。 「シルクじゃないのよ」  と、言っていたが、光沢のある薄手《うすで》のセーターが、慶子のいくぶん硬《かた》い体の線をやわらげていて、いつもとは別の女のように慶子を見せている。  ジーンズに白いシャツの慶子。無地《むじ》の男仕立てのスーツ姿の慶子。そんな慶子しか、正道は見たことがなかったのだ。 「似合うよ、それ」 「この間、買ったの。今日、着ようと思って」  慶子が、いくぶん照れながら言った。  ワインの酔いが回るにつれて、正道は、慶子をこのまま帰したくなくなってきた。 「おれのところに来るか?」  と言うと、慶子は、しばらく黙っていたが、 「いいわよ」  と、努めてさりげなく言った。  正道の胸に、一瞬亜由子のことがかすめたが、いつも出てくるとはかぎらないし、出てくれば出てきたで、お化けだということが慶子にも分かるだろうと、心を決めたのだ。  それが大きな間違いだったことに、正道も、その時には気づかなかったのだ。     13 「入れよ」  マンションのドアを開けて、正道は、慶子に言った。  慶子が、少しためらってから、玄関に入ってきた。正道の部屋に来ることが、何を意味しているか、慶子にも分かっているのだ。 「おれは、今日という日を、一年間夢みてたんだ」  リビングに入るとすぐに、正道は、慶子を抱き寄せた。慶子は、恥ずかしそうにうつむいたが、その顔を仰向《あおむ》かせて、正道は唇を吸った。  体付きと同じで、輪郭《りんかく》のはっきりした、幾分硬《いくぶんかた》めの唇。そのくっきりとした印象が、正道には好ましかった。クッションにキスをした時の、溶《と》けるように柔らかな感触《かんしよく》をふと思い出して、一瞬|不吉《ふきつ》なものが心をよぎったが、慶子を強く抱きしめることで、それを忘れた。  慶子が、応《こた》えるように体を押しつけてくる。その反応が嬉しくて、正道は、さらに強く唇を吸った。 「人の目の前でイチャイチャしないでよ」  女の声が、すぐそばで聞こえた。  正道は、慌てて慶子から離れた。  ベランダのガラス戸の前に、亜由子が立っている。 「出た!」  と、正道は思った。  正道が急に自分から離れたものだから、慶子は、けげんな顔になっている。 「どうしたの?」 「これが、おれが言ったお化けだ」  正道は、亜由子を慶子に紹介した。 「どれが?」 「これが」 「きれいなお化けね」 「まあ、そうだ」 「この間も来てたの、ここに?」 「そう」 「しょっちゅう来てるの?」 「おれは呼ばないのに、勝手に来るんだ」 「ふーん」  慶子が、いきなりガラス戸を開けて、怒った顔でベランダに出ていった。 「あなた、お化けなの?」  隣のベランダに呼びかけている。  正道は、一瞬何のことか分からなかった。隣のベランダにむつみちゃんが出てきて、洗濯物を取り入れていたことに、それまで気づかなかったのだ。正道が紹介したのは、亜由子だったが、慶子の目に見えていたのは、隣のむつみちゃんだったのだ。 「いつも化けて出てくるの?」  慶子の言葉にトゲがあった。むつみちゃんの方もムッとした顔して、 「失礼ね。私はお化けなんかじゃないわよ」  と、言い返している。  まずいことになったと、正道は思った。隣の女には、慶子も神経を尖《とが》らすわけがある。このマンションに引っ越すことになったのも、前のマンションの隣の女のせいだったのだ。  慶子が、ベランダからもどってきた。部屋に来た時の、やわらいだ表情はまったくなくなっている。 「お化けがいるなんて、人をバカにしたごまかしを言わないでよ」  慶子は、この部屋に来ているのは、隣の女だと決めてしまったらしい。 「あれとは違う……あれとは全然違うんだ」  正道は、慌てて言った。 「まだ他にいるの?」 「ここにいるじゃないか!」  壁際《かべぎわ》に下がって、怒る慶子と慌てる正道を、面白そうに見ていた亜由子を、正道は、もう一度指した。  慶子が、正道の指した方を見た。  慶子には、亜由子の姿は見えていない。正道の指し示した壁のところには、今年の夏の沖縄キャンペンガールの水着のポスターが張ってあった。 「人がせっかく来てあげたのに、ふざけてばっかり」  慶子が怒った顔で、リビングを出ていった。 「どこに行くんだ?」 「帰るの」 「帰る!?」 「帰れ」  亜由子の声が、二人の言い争いに加わってきた。慶子と正道にくっついて、亜由子も廊下に出てきている。 「余計《よけい》なこと言うな」  正道は、亜由子に言った。 「誰に話してるのよ」  慶子が振り向いた。 「お前、見えてないのか?」 「頭の固い人には見えないのよ」  亜由子が、また言葉をはさんでくる。 「私には、ちゃんと見えてます」  慶子が、正道に言った。慶子の言っているのは、正道の行動がすべて自分には分かっているという意味だ。どんなにごまかしても、女がいることは私には分かっているのよと、慶子は言っているのだ。完全に誤解《ごかい》をしてしまっている。 「おーおー、そうかい、そうかい。ちゃんと見えてて、それはよかった」  亜由子が茶化《ちやか》すように言った。 「茶化すな!」  正道は、亜由子を怒鳴《どな》りつけた。一年間の苦労が水の泡になりかけているのに、茶化されてはたまらない。 「茶化してなんかないわよ」  自分が怒鳴りつけられたと思った慶子が、ムッとした顔になった。  事態は、ますます悪い方に向かっている。 「お前に言ってるんじゃないよ」  と、正道は言い訳をしたが、そんな言い訳が慶子に通じるわけはない。 「ああ、そう……あっちの人に言ってるの」  慶子は、隣のベランダの方を顎《あご》で指すと、ヒールをつっかけて、ドアを開けた。 「忘れものよ」  亜由子が、正道の後ろから、慶子のハンドバッグを突き出した。ひったくるようにして、慶子がそれを受け取る。慶子の目には、亜由子の姿は見えてないから、正道が、慶子にハンドバッグを突き出したように見える。これでは、さっさと帰れと言っているようなものではないか。 「待ってくれ」  正道は、慶子の腕をつかんだ。 「何よ」 「ここには、ほんとにお化けがいるんだよ。信じてくれ」 「お化けなら、約束違反にならないって言うの?」 「仕方がないじゃないか。勝手に、ここに住みついてるんだから」 「…………」 「おれの前に、ここに住んでいた女なんだよ」 「…………」 「浪人生につぶされて、死んだ女なんだよ」 「私をバカにしないで!」  そう言って、慶子は、音を立ててドアを閉めた。ガチャンというドアの音が、一年間の我慢が水の泡になったことを、正道に思い知らせていた。     14 「おれは、一年間、女との付き合いを絶ってきたんだぞ!」 「それがどうしたの」 「今日の日のために、我慢に我慢を重ねてきたんだぞ!」 「それがどうしたの」 「おれの気持ちが、やっと今日、慶子に通じたんだぞ」 「それがどうしたの」  正道が、どんなに怒っても、亜由子はケロリとした顔をしている。その上、正道が好きだからと、慶子がわざわざ買ってきた、銀座の『エルドール』のシュークリームの箱を勝手に開けて、食べようとしている。 「食うな!」  正道は、亜由子から箱をひったくった。  恋路《こいじ》を邪魔《じやま》された上に、大事な土産物《みやげもの》まで食べられてはかなわない。 「出てくるなって、今朝、あんなに頼んだだろうが!」 「知ってるわよ」 「どうして出てきた」 「人の目の前でイチャイチャするからよ」 「お前とは関係ない!」 「男と女が仲よくしてると、私はシャクにさわるのよ。男と女なんて、みんな別れてしまえばいいのよ」 「お前、男運が悪かったんだろうが、生きてる時に?」  亜由子は黙ってしまった。図星《ずぼし》だったのだなと、正道はさらに追い打ちをかけて、 「男に振られたのか?」  亜由子は、黙ったままだった。 「私は、したいことがいっぱいあったのよ。食べたいものだっていっぱいあったし、着たいものだって、いっぱいあったし、行きたいところもいっぱいあった」  亜由子が、関係のないことを言いはじめた。 「もっともっときれいになりたかったし、結婚もしてみたかった……セックスだってしてみたかった」  若い女なら、当然人を好きになってみたかったと言うところなのに、それが入っていないことが、この女の男運の悪さを表していた。  恋愛はもうコリゴリと、このお化けは思っているのかもしれない。 「ねえ、セックスしてみようか?」  お化けが、とんでもないことを言い出した。 「セックス出来るのか、お化けに?」 「分からない。死んでから、したことないから」  それはそうだろう。 「ねえ、してみる?」 「い、いやだ」  亜由子が迫ってくるものだから、正道はあとずさりをした。 「私は、くすぐったがりだから、感度はいいんだって言われてたのよ。でも、男がヘタクソだったから、全然よくなかった」  亜由子は、セックスにも未練《みれん》をもっているらしかった。これだけ、未練を持っていれば、化けて出てきたくなるのも無理はないかも知れない。 「お、おれは、お化けとセックスする趣味はない」  正道は、慌てて逃げた。 「生前の怨《うら》みを、おれのところで晴らすな。お前とおれは、何の関係もないんだ!」 「じゃ、シュークリームちょうだいよ」  セックスから、あっさりとシュークリームに転換してしまった。 「四個も入ってたじゃないの、一個くらいくれてもいいじゃないの」 「じゃ、食えよ」  正道は、仕方なくシュークリームの箱を差し出した。お化けとセックスするよりも、シュークリームを食べられた方がまだマシだ。  亜由子が、ふんわりと焼きあがった黄金《こがね》色のシュークリームを口に入れた。 「おいしい……こんなおいしいシュークリームがあるなんて知らなかった……死ぬんじゃなかった」  亜由子は、二つ目のシュークリームを口に入れたが、正道は、止める気にならなかった。幸せになれないまま死んでしまって、この世に未練を一杯残してしまっているこの女が、どこか可哀そうにも思えてきたのだ。  しかし、一年がかりで、やっと切れかかった糸を元にもどしたのに、この女が、完全にその糸を切ってしまったのだと思うと、憎らしくなってきて、 「それ以上食うな」  と、三個目のシュークリームは取り上げた。     15 「お化けにセックスをしようって言われた!?」  中継車の中で、誠がすっとんきょうな声を出した。誠でなくても、誰だって、そんなことを言われれば驚きの声を上げてしまう。 「ほんとに、おれの部屋にはお化けがいるんだよ。冷蔵庫のものは勝手に食ってしまうし、毎晩、おれの帰りを待って、ブチブチ生きてた頃のグチを言うから、おれは眠れないんだ」 「生きてた頃のグチ?」 「グチの多いやつなんだよ」 「お前、慶子のために我慢したのが悪かったんじゃないか。一年も女付き合いを絶つなんて、やっぱり、お前には無理だったんじゃないか?」  誠は、哀れむような目で正道を見る。 「おれは、病気なんかじゃない!……おれの部屋には、本当にお化けがいるんだ。信じてくれ、宮」  誠は、宮本という姓から、「宮」とか「宮ちゃん」とか呼ばれている。 「信じてくれってったって……」  正道の真剣な気持ちは誠にも伝わったが、だからと言って、そんな話をすぐに信じるわけにはいかない。 「今日、うちに来てくれ。お化けに会わせる」 「え?」  誠は、気味の悪そうな顔をした。でも、興味も半分あって、正道についてきた。 「出てこい!……出てこい!」  正道は、一生懸命に呼びかけた。誠の目の前に現れてくれれば、亜由子の存在を信じさせることが出来る。誠が信じれば、慶子だって、正道の言っていることを頭からバカにしたりしないだろう。  しかし、亜由子は現れなかった。 「頼むから出てきてくれ」  と、正道が哀願《あいがん》しても、何も現れない。部屋のアチコチで一生懸命《いつしようけんめい》に呼びかける正道を、誠が、痛ましそうな顔で見ていた。  やっぱり、病気かも知れない。誠が、そう思っても、無理のない状況なのだ。 「ホラ、この女だ。あの時のニュースの女と同じ人間だろうが」  正道は、ふと思いついて、ダイエットの本にはさまっていた亜由子の写真を見せた。 「こんなデブのお化けなのか?」  誠が言ったとたんに、部屋に風が吹き荒れた。テーブルの上のものがいっせいに舞い上がる。 「うわーッ」  誠が、大きな声を出した。  部屋の中で舞い上がる新聞や雑誌の向こうに、亜由子が現れた。 「この部屋で、二度とデブって言葉を使わないでって言ったでしょ!」  亜由子の目がつりあがっている。よっぽどデブという言葉が嫌《きら》いらしい。子供の頃から太っていて、何度もその言葉に傷ついたのかも知れない。亜由子が、この世でたったひとつなしとげたことは、デブという言葉から無縁になることだったのだ。 「これだ、宮!……これが、うちのお化けだ!」  正道は、亜由子を指さした。 「どれだ?」 「これだ!」 「どれ?」 「これ」 「これって……?」 「見えないのか、お前?」 「見えない」  誠にも、亜由子の姿は見えないらしい。これでは、お化けの存在を信じさせるわけにはいかない。 「何かしろ、何か?」  正道は、亜由子のところに走っていった。せっかく出てきたのに、このまま消えてしまわれては、何にもならない。 「何をするのよ?」 「これを持って、部屋を歩け」  本棚に置いてあった、置物の魚を亜由子に渡した。どっしりとした木彫りの置物だ。 「いやよ、そんなこと」 「おれの部屋でさんざん食ったり、飲んだりしただろうが。そのくらいのことは、してもいいじゃないか!」  正道は、食いものの義理で攻めた。 「シュークリームだって、二個もやった」  一宿一飯の恩義《おんぎ》で攻められて、亜由子も仕方ないと思ったのか、渋い顔で木彫りの魚を持って、部屋の中を歩き出した。 「…………!?」  亜由子の姿が見えてない誠には、木彫りの魚が部屋を泳いでいるように見える。亜由子は、結構|茶目《ちやめ》っけがあるのか、魚を、飛び跳《は》ねるように動かしたりする。 「…………!?」  誠は、マジマジとそれを見ていた。 「これが、お化けだ。お化けなんだよ」  正道は、懸命に誠を説得した。でも、魚が泳いでいるだけでは、不思議な現象が起きていることは分かっても、お化けの存在を確認するためには、今ひとつ説得力に欠けている。 「バカバカしい……」  何度か部屋を往復した後で、亜由子は、魚を放り出した。床に転がった木彫りの魚を、誠が、怖いものでも見るような目で見ていたが、いくら見ても、ただの木彫りの魚に過ぎない。 「ビールでも、飲もう」  亜由子が冷蔵庫を開けた。中から、缶ビールを出して、リビングの方にもどってくる。  動かなくなった木彫りの魚を手に取って、シゲシゲと見ていた誠が、今度は、目を丸くして立ちすくんでしまった。  缶ビールが、宙に浮いて、自分たちの方に来る。 「お、おい!」  と、誠は、正道にしがみついた。 「これが、お化けだ。お化けなんだ」  正道が嬉しそうな声を上げて、誠の手をつかんだ。     16 「ほんとにいるんだよ。正道の部屋には、本当にお化けがいるんだよ」  翌日、誠は、スポーツ局で慶子を捕まえて、昨日あったことを説明した。 「男の友情って、美しいわね」  慶子が、皮肉《ひにく》たっぷりに言った。誠が、正道に頼《たの》まれてきたと思ったらしい。 「二人で口裏《くちうら》を合わせて、私を説得しようったって無理よ。私は、そんなバカじゃないから」 「ほんとなんだよ。缶ビールが宙に浮いてきて、おれ、お化けと一緒にビールを飲んだの」 「私、宮ちゃんのことも嫌《きら》いになるわよ」 「どうして信じないんだよ!」 「そんな非科学的なことが信じられるわけがないでしょ」 「信じろよ、慶子。自分でも思ってみないことが、この世にはあるんだよ。自分の頭だけですべてを判断しないで、もっと素直《すなお》に世の中を見てみろよ」 「私の頭が固いって言うの?」 「そうじゃないけど……」  正道が、NHKみたいな女だと言ったように、慶子は、真面目《まじめ》だが、柔軟性に欠けるところがある。だから、よく人に突っかかっていく。それが、慶子の威勢のよさで、チャーミングなところでもあるのだが、説明の仕様のない不思議な現象を、慶子に納得させるのは無理なことだと、誠も、途中で諦《あきら》めてしまった。 「とにかく、正道の部屋に行ってみろよ。ほんとに不思議なことが起きるんだから」 「ほんとにお化けがいるんだって?」  局の廊下で、慶子は、正道に言った。からかい半分の口調である。 「ほんとにいるんだ」 「私にも見せてくれる?」 「見せてやるよ」  と、言いたいところなのだが、慶子にも誠にも、亜由子の姿は見えていない。二人に見えなくて、どうして自分だけに見えるのか、正道には分からなかった。  週に二回もセックスをしてると、隣《となり》のことをよく知っているから、隣の住人には見えているかも知れないと、 「お宅にお化けでる?」  と、コンビニエンスストアで会った時に、むつみちゃんに聞いてみたが、 「そんなもの出ないわよ」  と、おぞましい顔をされてしまった。 「うちのが、村田さんのこと変だって言ってるわよ」  コンビニエンスストアの紙袋を抱《かか》えて帰っていく時に、むつみちゃんが言った。 「元教師が?」 「そう」 「何が変なの?」 「しょっちゅう、部屋の中でひとりごとを言ってるって」 「…………」 「この間は、部屋の中で魚が泳いでたって」 「え?」 「ほんとうなの?」 「ほんとうだよ」  本当だから、本当だと言うより他にはなかった。 「どうやって泳がしたの?」 「勝手に泳いだんだ」  むつみちゃんは、マジマジと正道の顔を見て、ホッと溜《た》め息をついた。 「ああ、よかった」 「何が?」 「私、この間、あいつの頭をフライパンで叩《たた》いたのよ」 「ああ」 「見てた?」 「見てた」 「そのせいで、あいつの頭がおかしくなったんじゃないかって心配してたの。おかしいのは、あいつじゃなくて、村田さんの方だった。ああ、よかった」  頭がおかしいことにされてしまって、正道の方は全然よくなかった。  マンションの玄関まで来ると、元教師が、ちょうど塾《じゆく》から帰ってきていて、一緒に歩いてくる正道とむつみちゃんを見ると、 「むつみ、そんな人に近づくものじゃありません」  と、正道のことを、まるで危険物のように言って、さっさとむつみちゃんをマンションに連れて入ってしまった。     17 「どこにお化けがいるの? 早く見せてよ」  正道の部屋に来た慶子は、馬鹿にしたような口調で言う。  お化けの存在など、頭から信じていない顔だ。こんな慶子の目の前に、お化けを出してみせて、アッと驚かしてやりたいのだが、正道にしか見えないお化けだから、どうしようもない。 「すぐには見せられない」 「どうして?」 「向こうには、向こうの都合があるじゃないか」 「お化けに都合があるの?」 「出てきてくれと頼んでも、すぐに出てくるかどうか分からない」  出てきて欲しい時に出てこなくて、出てこないでもいい時に出てくるのが、お化けなのだ。 「でも、姿は見えなくても、この部屋で不思議なことが起きたら、それは、お化けのせいなんだよ」 「何でも、お化けのせいにしようと思って……突然、女の人が現れたら、あれは、お化けだって言うんでしょ」 「信じろよ」 「早く不思議なことを起こしてよ」  慶子は、正道に女が出来たと思っている。自分のために一年|我慢《がまん》してくれて、それを喜んだ後だっただけに、腹立ちも、余計《よけい》大きかった。 「出てこい」  正道は、部屋の隅《すみ》に向かって言った。とにかく、亜由子の存在を、慶子に信じさせなくては、慶子との仲は、このまま終わってしまう。いろんな誘惑《ゆうわく》を払いのけて、一年間|辛抱《しんぼう》してきたことが、無駄になってしまうのだ。でも、亜由子は、どこにいるのか分からないから、始末が悪い。 「出てこい……出てこい!」 「出てこい、出てこい、池の鯉《こい》」  慶子が、からかった。 「出てきてくれ」  正道は、見えない亜由子に向かって懇願《こんがん》した。しかし、何の変化もない。第一、この部屋にいるのかどうかも分からないのだ。亜由子は、正道の部屋だけでなく、マンションのあちこちに出没《しゆつぼつ》しているらしく、 「三階の野村さんとこ、奥さんが浮気してるわよ」  とか、 「一階の武井さんの旦那《だんな》さん、女装する趣味があって、奥さんと子供さんが出かけると、女の恰好《かつこう》をして、鏡に見入ってるわよ」  とか、 「四階のおばあちゃん、……相当、お金を貯めてて、貯金通帳を見ながら、嬉《うれ》しそうに御飯食べてるわよ」  とか、いろんな情報を仕入れてくる。正道は、このマンションの住人の秘密を、ほとんど知ることになってしまった。一階の武井さんは、恰幅《かつぷく》のいい、一見すると大会社の社長に見える守衛《しゆえい》さんなのだが、この恰幅でどんな女装をするのかと、道で会った時にマジマジと顔を見てしまった。  正道が、一生懸命呼びかけても、どこかに行ってしまっているのか、一向に反応がない。ほとんど、あきらめかけた時、正道は、いいことを思いついた。 「デブって言ってみろよ、デブって」 「デブ?」 「デブって言うと怒るんだよ。ここのお化け」 「デブなの、ここのお化け?」 「昔、デブだったらしい」 「お化けが、太ったりやせたりするの?」 「生きてる時に太ってたんだよ」 「お化けになったら、やせるの?」  慶子は、ああ言えば、こう言う。その反応のよさが好きだったのだが、今は、そんなことを楽しんではいられない。 「いいから、デブって言ってみろよ」 「デブ」 「もっと、大きな声で」 「デブ!」 「もっと」 「デブ!」  部屋には何の変化もなかった。 「デブ!……デブ!」  半分はからかいで、慶子は、部屋中を歩きまわっている。最後には、ベランダにまで出ていって、 「デブ!」  と、大きな声を出すと、隣のベランダのガラス戸がガラリと開いて、元教師が怒った顔で出てきた。 「うちのむつみは、デブじゃない!」  結局、慶子に、お化けの存在を確認させることは出来なかった。慶子は、正道が何かをごまかそうとしていると、ますます確信したらしく、正道にショックを与えるようなことを言って、帰っていった。 「私、プロポーズされてるの」 「え?」 「受けるかも知れない」 「え!?」     18 「慶子、技術部の加藤から、プロポーズされてるらしいよ」  誠が、正道に言った。 「本当に結婚するかも知れないぞ」 「うん……」 「心にもないことを、わざというような女じゃないよ、慶子は」 「そうだな」 「いいのか、お前?」 「いいって、慶子が、そうしたいって言うのなら、仕方ないじゃないか」 「仕方がないって……お前、慶子のために一年も他の女とデイトしなかったんだろうが……慶子のこと、そんなに好きだったんだろうが……それでも、いいのか、お前!」 「おれの部屋のお化けを、他の女だと思い込んでるやつを、どうしろって言うんだ」 「どうにかしないと、慶子、本当にプロポーズを受けてしまうぞ」 「どうしようもないよ、もう……おれは、チャンネル男だから、もともと信用がないんだよ」  お化けがいることを慶子に信じさせるために、これ以上どうしたらいいのか、正道には分からない。こんなに必死になっているのに、自分のことを信用しないのなら、また元のチャンネル男になってやろうと、正道は、投げやりな気持ちにもなっていた。 「お前、そんなに簡単に慶子のことをあきらめられるのか。慶子のことを、その程度にしか好きじゃなかったのか?」  誠が、しつっこく食いさがる。正道は、思わず誠の顔を見てしまった。 「お前、どうしたんだ?」 「何が?」 「お前が、そんなに必死になることじゃないだろうが」 「そうだけど……」  正道は、ふと思いあたった。 「ひょっとして、慶子が好きだったのか、お前?」  誠は、黙りこんでしまった。 「好きだったのか?」  正道は、もう一度聞いた。 「好きだった」  誠がポツリと言った。 「そうか……」 「おれは、お前が、慶子のことを好きだと思っていたから、あきらめてたんだ。慶子が、お前のことを好きだと思ってたから、あきらめていたんだ。慶子が、他の男と付き合うっていうのなら、おれだって、慶子にアタックする」  誠の鼻息が荒くなっていた。     19  慶子が、そこまで自分のことを信用しないというのなら、元のチャンネル男にもどってやろうと思った正道だったが、なかなかその気にはならなかった。 「女絶ちは終わったの?」  と、『中央テレビ通り』の美由紀ちゃんは、相変わらず色っぽい目を正道に向けてくるのだが、正道は、今ひとつ、それに乗り切れない。美由紀ちゃんの胸のふくらみは、いまでも充分に魅力的だとは思うのだけれども、ふっと、慶子の小さめのふくらみを思い出してしまう。そうなると、もうダメなのだ。ふっくらと白い美由紀ちゃんの胸よりも、小さめで色の浅黒い慶子の胸のふくらみの方が、ずっと魅力的に思えてくる。正道にも、それがなぜだか分からないのだ。 「お宅って、変なことが起こりそうだから、遊びにいってもいい?」  素行《そこう》に問題のあるむつみちゃんも、元教師の留守中に、正道のところに電話をかけてくる。むつみちゃんは昼の勤めだし、塾の先生をしている元教師は夜の勤めだから、むつみちゃんは、日が暮れると時間を持て余してしまうのだ。 「ダメだよ」 「どうして?」 「隣の男に興味なんか持ってはダメだ」  正道は、補導係の先生になってしまった。チャンネル男だった時には、隣の女に興味|津々《しんしん》だったのに。  女絶ちをしていた一年間と同じような生活を、正道は、またすることになってしまった。レンタルビデオのAVギャルともお付き合いする気になれずに、ただぼんやりと夜を過す日が続いてしまった。  ある日、正道は、帰ってきたままのワイシャツ姿で、しばらくソファに座っていたが、そばにあったパターでゴルフボールを転がしてみると、ボールが練習用のホールの前まで行くと、コロッとカーブした。  あれと思って、もう一度打つと、今度は、とんでもない方向にボールが飛んでいく。  亜由子のせいだということに思い当たって、 「どこにいるんだ!……出てこい!……出てこい!」  と、正道が怒鳴ると、 「ここにいるわよ」  と、亜由子がケロリとした顔で姿を現した。 「この間、どうして出てこなかったんだ!」 「この間って?」 「おれの女が、ここに来てた時だ」 「もう、おれの女じゃないくせに」 「お前のせいじゃないか! お前のせいで、おれの女じゃなくなったんじゃないか!」 「怒らないでよ、久しぶりに出てきてあげたのに」 「出てきて欲しい時に出てこなくて、出てこなくていい時に出てくるんだ、お前は!」 「幽霊だもの」 「この間、ここにいなかったのか?」 「いたわよ」 「デブって言った時に、どうして怒らなかった」 「あなたとあの女の縁を取り持つために、怒ったりするなんてバカバカしいじゃない」 「お前のために仲が悪くなったんだぞ。そのくらいしてもいいだろうが」 「私だって、男と別れたのよ」 「それとこれと、何の関係があるんだ!」 「私はこんなに不幸なのに、人が幸せになるなんて許せないわよ」 「ひがむな」 「ひがむわよ。私は、これからという時に死んだんだから」 「おれのせいじゃないだろうが」 「あなたのせいじゃないけど」 「じゃ、おれと女の仲を邪魔するな!」 「この部屋に来るから、目につくのよ」 「お願いだから、どっかに行ってくれ」 「どこにも行くとこないもの」 「二階だって、三階だってあるだろうが……このマンションじゃなくたって、どこへでも行けるんだろう、お化けなら……世界は、もっともっと広いんだ。頼むから、よそに行ってちょうだい」 「あなた以外の人には、私の姿が見えないんだもの。人が見てくれなければ、何をしてもつまらないじゃない?」 「どうして、おれにだけ見えるんだ?」 「そんなこと知らない。私とあなたって、縁があるんじゃない」 「おれは、お化けと縁なんかない!」 「ワイシャツぐらい脱ぎなさいよ」 「ほっといてくれ」 「着替えするのも、面倒くさいの?」 「何をする気にもなれないんだ」 「何よ、あんな女のことくらいでショボショボして……あれ程度なら、もっといい女が、あの世にはいっぱいいるわよ。この間自殺したミス・ユニバースの子、紹介してあげようか?」 「そ、そんなもの紹介してくれなくていい!」 「脱ぎなさいよ、シャツ」 「おれにかまうな」 「ボタンが取れてるのよ。つけてあげるから、脱ぎなさいよ」  お化けにボタンをつけられるのか、興味半分で、正道はワイシャツを脱いだ。 「針と糸なんかないぞ」 「いいわよ」  亜由子の姿が、ふっと消えると、玄関の方から針箱を持って入ってきた。 「どっから持ってきたんだ」 「隣から、持ってきたの」 「勝手に持ってくるなよ」 「返してくるわよ、後で」  針に糸を通して、亜由子は、ワイシャツのボタンをつけ始めた。そんな姿を見ていると、亜由子がお化けだってことを忘れてしまう。 「はい」  亜由子が、正道にワイシャツを渡した。 「お化けにボタンつけてもらったの、初めてだよ」  正道は、ワイシャツのボタンを見た。しっかりとついている。 「男の面倒みるの好きなのか?」 「そうよ」  一瞬ためらってから、亜由子が答えた。 「生きてたら、世話女房になってたんじゃないのか?」 「…………」  亜由子は黙ってしまった。黙ったまま、針と糸をしまう。 「どうした?」 「私は、世話女房になりたかったのよ……でも、世話をしたくなるような男には会えなかったの」  亜由子の顔が淋《さみ》しそうだった。 「お前、生きてた時、何してたんだ?」 「派遣《はけん》会社のOL……あっちの会社に行ってオフコン叩いて、こっちの会社に行って、ワープロ叩いて」 「男運悪かったのか?」 「そう……ロクでもない男ばっかり……私が付き合った男の中では、あなたが、まだ一番マシよ」 「お、おれは、お前と付き合ってなんかない」  正道は、慌《あわ》てて言った。お化けの付き合いの中に入れられてはかなわない。 「ボタン、つけてあげたじゃないの」  亜由子が、恩を着せるように言う。 「お前は、お化けじゃないか……お化けと人間が付き合えるか!」  正道は、大きな声で言ってしまった。  亜由子は何も言わなかった。その顔を見て、可哀《かわい》そうだと思ったが、 「頼むから、どこかに行ってくれ。お前がここにいると、おれの人生はメチャクチャになってしまう。第一、女も連れてこれないじゃないか」 「この部屋に、女を連れてきたりしたら承知しないからね」 「ここは、おれの部屋だぞ」 「ここで女とイチャイチャしたりしたら、徹底的にいじめてやるから」 「生きてる時の欲求不満を、おれにぶっつけるな。おれを恨《うら》むなよな。おれは、お前と何の関係もないんだ」 「私のことが見えるの、あなたしかいないんだから、とりあえず、ここでいい」 「ここでいいって……お願いだから、そんなこと言うな」  正道は、必死で頼んでいるのに、亜由子の方はケロリとした顔で、 「ビールでも飲もう」  と、キッチンに立っていった。 「おれのビールだ! 勝手に飲むな!」 「ケチ」 「頼むから、どっかに行ってちょうだい」  正道は、土下座《どげざ》でもしたい気分になった。     20  ゴルフ中継は、予選の前日から、仕事が始まっている。  カメラをセッティングして、何台かの中継車をゴルフ場に配置して、日曜日に本番の放映がある場合でも、木曜の予選から、本番と同じような中継を、機械の調整と練習を兼《か》ねて、始めるのだ。  ゴルフ中継の楽しみは、スタッフが作る炊き出しの食事だ。野球中継やボクシング中継だと、弁当ですませてしまうのだが、ゴルフ中継の場合は、作業が何日にもまたがるし、炊事《すいじ》をする場所も確保出来るので、大鍋《おおなべ》を持っていって食事を作る。カレーとか煮込《にこ》みとかの簡単な食事なのだが、これがなかなかおいしくて、ゴルフの中継の楽しみのひとつになっている。  カレーライスを紙皿に入れてもらって、食べる場所を探していた時に、正道は、誠がそばにいないことに改めて気づいた。  同じ中継車に乗った場合、誠と正道は、ほとんど行動を共にしている。意識をしなくても、気がついたら一緒にいることが多いのだ。相手のことを、あまり気にしないですむ。そんな付き合いを、正道と誠はしてきたのだ。だから、コンビとして長く続いてきたのかも知れない。  でも、このゴルフ中継だけは、誠がそばにいない。中継車の中で作業している時も、誠は、あまり口をきかない。なんとなく正道を避《さ》けているような気がする。  正道は、林の中で、ひとりでカレーを食べている誠を見つけた。そのそばに行って、 「よお」  と、声をかけると、 「ああ」  と、誠は、幾分《いくぶん》バツの悪そうな顔で振り向いた。 「飯を食うのなら、声をかけてくれればいいじゃないか」 「うん……」 「何かあったのか?」 「いや……」 「あったんだろう?」 「…………」 「慶子のことか?」  誠が、自分を避けているとすれば、それしかないと思った。仕事のことなら、思ったことを、すぐ口に出すはずだ。言いたいことを遠慮《えんりよ》なく言ってきたからこそ、コンビが続いているのだ。  誠は、すぐには答えなかった。正道は、それ以上聞かないで、自分もカレーを食べはじめた。  誠も、黙ってカレーを食べている。  食べ終わってから、誠がポツリと言った。 「この間、慶子とデイトをした」 「それが、どうかしたのか?」 「技術の加藤のことを聞いたら、プロポーズを受けようと思っているって、慶子は言った」 「好きなのか」  と、誠は、慶子に聞いたのだ。 「とってもいい人なのよ」  と、慶子が答えた。  誠は、もう一度、 「好きなのか」  と、聞いた。 「やさしいの、すごく」  と、慶子が答えた。 「好きなのか?」  誠が、また聞いた。好きなのかという誠の問いに、慶子は、ストレートな返答をしてないのだ。 「とっても親切よ、加藤さん」  慶子が、そう答えた。 「そんなことで結婚するのか、きみは!」  誠は思わず怒り出していた。どうして怒っているのか、自分でも分かっていなかった。 「いい人で、やさしくて、とっても親切なら、誰とでも結婚するのか、きみは!」 「宮ちゃん……?」  慶子が、驚いた顔をした。誠がどうして怒り出したのか、慶子にも分からない。 「結婚って、そんなものじゃないだろ」  誠は、気持ちを静めながら言った。慶子は、黙って誠のことを見ていた。 「人を好きになるって、そんなものじゃないだろ」 「…………」 「生きていくのが淋《さみ》しいから、ひとりでいられないから、会いたくなって、いつも一緒にいたくなって……それが、人を好きになるってことだろ。結婚するってことだろ!」 「…………」 「いい人で、やさしくて、とっても親切だからって、ただ、それだけで結婚するのか、きみは」 「宮ちゃんって、ロマンチストね」  慶子が、やさしい声で言って、ふっと笑った。一生懸命に言ってくれる誠に、好意を感じている笑顔だった。 「おれは、きみにそんな結婚なんかさせたくないんだ」  慶子の笑顔に誘われるように、誠は、ふっと言ってしまった。 「おれは、きみが好きなんだ……」 「慶子、どんな顔をしていた?」  林の中でカレーを食べながら、正道が誠に聞いた。 「黙ってたよ」 「そうか……」 「おれ……」誠が、言葉を切りながら言った。「自分でも分からないままに、慶子を抱きしめてキスをしてたんだ」 「…………」 「自分のしていることが、自分でも分からなかった」 「慶子、どうしていた?」  平静《へいせい》をよそおいながら、正道が聞いた。 「じっとしていた……」 「そうか……」 「すまん、正道」 「お前が謝《あやま》ることじゃないよ」 「…………」 「お前は、慶子のことが好きだった。だから、キスをした。慶子が、それを受けた……それだけのことだよ」  空になった紙皿を持って、誠は、林の中から出ていった。正道は、ひとりになって、カレーを食べた。  慶子は、簡単にキスを受けるような女ではない。正道のところに来た時だって、酔ったはずみのようでいて、決してそうではなかったのだ。     21 「誠に、好きだって言われたんだって?」  ゴルフ中継で泊まっていたホテルから、正道は、慶子に電話をした。 「宮ちゃんが言ったの?」 「黙っていたら、おれに悪いと思ったんだろ」 「そう……」 「おれに謝ってた……謝ることなんかないって、おれは言っといたけどね」 「宮ちゃん、あの時、あなたのことばっかり言ってたのよ」 「おれの何を?」 「あなたが、私のことを本気で好きだったって……自分でも思ってもみなかったかも知れないけど、本気で好きになってたんだって……」 「…………」 「チャンネル男に本気なんてことはないって、私、言ってやったの……そうしたら……」 「そうしたら?」 「あいつは、本当は淋しがりやなんだよって、宮ちゃん言ってた。あいつが、あっちの女、こっちの女って付き合うのも、淋しいって気持ちが心の中にあるからだって、しきりにあなたのことを弁護してたわよ」 「きみは、なんて言ったんだ?」 「そんなもの、あいつの言訳に決まってるじゃないって言ったわよ。自分のしたことの言訳にしてるのよ、あのチャンネル男はって」 「おれのこと、まだチャンネル男だって思ってるのか?」 「思ってるわよ」 「そうか……」 「『ガス燈』の美由紀ちゃんとデイトしたでしょ?」 「知ってるのか?」  つい、この間、正道は、ひとりで『中央テレビ通り』のスナックに行ったのだ。毎日、仕事が終わると部屋に帰ってきていたのだが、ワイシャツのボタンをつけてから、亜由子が、正道のことをかまうようになってきた。「女って、ひとつボタンをつけたら、ふたつつけたくなる。ふたつつけたら、三つつけたくなる」と、何かのテレビドラマで言っていたが、まさにその通りで、亜由子は、どんどん正道の面倒を見るようになってきたのだ。亜由子にかまわれるのが、だんだんうっとうしくなってきて、正道は、仕事の帰りに、久しぶりに『ガス燈』に寄ったのだ。ひとりで行ったのは、初めてだったかも知れない。 「まだ、デイトする気はあるか?」  と、美由紀ちゃんに聞くと、 「ないこともない」  と、美由紀ちゃんは、昔のような、自分から誘惑《ゆうわく》するような口調ではなく、ぶっきらぼうに答えたのだ。 「美由紀ちゃんを送っていって、キスしたでしょ?」  電話の向うで、慶子が言った。 「どうして、そんなこと知ってるんだ!?」 「美由紀ちゃんが、みんなに言いふらしてるらしいわよ。私が、村田さんの女絶《おんなだ》ちをやめさせたって……」  女絶ちなんか、もうとっくに止めているのにと苦笑してしまった。美由紀ちゃんが、自分に愛想《あいそ》よくしてたのは、正道に好意をもっているからではなく、ただ正道の女絶ちをやめさせたことを、人に自慢したいだけだということが分かって、心が冷えるような思いをした。そんなことを自慢して、何になるのだろうと思ったが、自分と正道の間にあったことを人に言いふらすということは、ただ、それだけのためにとしか思えない。キスを誘ってきたのも、そのためだったのだ。 「誠とキスをしたんだろ?」  自分の痛いところをつかれて、正道は、言わなくてもいいことを慶子に言っていた。 「したわよ」  慶子が答えた。 「誠のこと、好きなのか?」 「好きよ」  慶子は、はっきりとした口調《くちよう》で言った。自分の心に言い聞かせているような言い方でもあった。  正道は、しばらく黙っていた。慶子も、黙ったままでいた。 「じゃ……」  慶子が、受話器を置こうとした。もう少し慶子と話したかったが、何を話していいのか、正道には分からなかった。 「じゃ……」  そう言って、正道は、受話器を置いた。  美由紀ちゃんをデイトに誘ったのは、慶子と会えないことの淋しさからである。それが、こんな形で、慶子との別れに関わってくるとは思わなかった。美由紀ちゃんは、単に正道をからかっただけなのに、それを弁解したところで、どうしようもないところまで、正道と慶子はきてしまっていた。  おたがいに好意をもっていることが分かっていながら、男と女は、ふとしたはずみで、自分たちの思ってもみない方向に行ってしまうことがあるのだ。     22  野球シーズンが終わって、慶子と一緒に仕事をすることもなくなった。スポーツの連中は、いつもあちこち飛び回っていて、局にいることは少ないから、仕事が一緒でないと、顔を合わす機会がなくなってしまう。  慶子の噂《うわさ》は、よく耳にした。  アメリカンフットボールの中継の時に、連絡ミスで用意してあったレポートが入らずに、チーフディレクターから怒鳴《どな》りつけられて、泣きながら中継をしていたとか、取材に行くのに、テープを忘れていって、慌ててメチャクチャな電話を局にかけてきたとか、初めて担当した1H(一時間)のスポーツ番組が評判がよくて、スタジオのフロアに座り込んで泣いたとか、そそっかしさと微笑《ほほえ》ましさの入り交じった、慶子らしい噂だった。  本来なら、慶子の口から直接聞くはずの話題なのにと、正道は、ふっと淋しくなった。 「慶子と宮が、よくデイトしてるらしいぜ」  と、いう噂も耳にするようになったが、 「知ってるよ、おれも」  と、正道はさりげない振りをして言ったのだ。 『ガス燈』にも行く気がせず、他のバアにも行く気もしなくなって、正道は、また毎晩、ちゃんと帰宅するようになった。 「お帰りなさい」  亜由子が、いそいそと出迎える。この女のせいで、慶子とも別れるようになったのだと、ときおり怒鳴りつけたくなることもあるが、あまりに一生懸命《いつしようけんめい》に面倒を見てくれる亜由子を見ていると、怒りもふっと消えてしまう。元はといえば、自分がチャンネル男と言われるような生活をしていたことが、慶子を去らせる原因だったのだ。自分のような人間よりも、誠のような誠実な人柄《ひとがら》の男と一緒になった方が、慶子の一生のためにはいいと、正道は自分に言い聞かせた。  正道は、だんだん亜由子と暮らすのに慣れてきてしまった。料理の腕はいいとは言えない亜由子が、一生懸命になって料理を作ってくれる。初めは、味にケチをつけるとふくれたりしていたが、正道の言った通りの味にしようと努力していることが分かって、文句も言えなくなった。生前は、あまり幸せでなかったらしい亜由子が、それを取りもどそうと懸命に男の面倒を見る姿は、いじらしくなってもくるのだ。  ただ、生前からそうだったらしく、ヤキモチ妬《や》きなのには参ってしまった。  美由紀ちゃんとデイトした時なんか、完全なふくれっ面でテーブルの前に座っている。 「どこに行ってたのよ」 「デイトです」  正道は、わざとウキウキとしてみせた。 「私が料理作って待ってたのに、あなたは、他の女と会ってたの」 「それが悪いか」  お化けに、そんなことを言われる筋合《すじあ》いはないのだ。 「人がせっかくおいしい料理を作ってあげたのに、あなたは、他の女と料理を食べてきたの……どうせね、あなたなんか、そういう男よ」  亜由子は、完全に女房気取りだ。 「お前な、生きてた時の男とゴッチャにしてるのと違うか……おれは、お前の男でもなんでもない」 「キスしたじゃないの、私に」  と、口を尖《とが》らせて言う。 「キス?……あれは、お前にしたんじゃない、クッションにしたんだ」 「ボタン、つけて上げたじゃないの」 「ボタン一個で、世話《せわ》女房になられてはかないません」 「どうして、そんなに冷たいことばっかり言うのよ、一緒に暮らしてるのに……」  亜由子は、泣きそうな顔までしてみせる。怒ってみせたり、泣いてみせたり、ほんとに厄介《やつかい》なお化けなのだ。 「一緒に暮らしてなんかない! お前のせいで、おれの生活はメチャクチャになってしまったんだぞ。おれが、慶子のために、この一年、どんなに我慢《がまん》してきたか分かってるのか!」 「自分がモテなかったことを、私の責任みたいに言わないでよ!」 「お前の責任じゃないか! お前がどっかへ行かないのなら、おれが引っ越す」  正道は、一時は、本当にそうしようと思ったことがあるのだ。 「引っ越したら、ついていくから」 「何?」 「だって、誰も、私のこと見えないんだから、仕様がないじゃないの」 「なんの因果《いんが》で、お化けにとりつかれなきゃならないんだよ」 「これも縁だと思って、あきらめなさいよ」  亜由子が、ニッコリ笑って言った。 「そんなことあきらめられるか!」  と、言った正道だったが、亜由子と一緒に暮らしているうちに、だんだん諦《あきら》めの心境になってきたのだ。正道が、何も言わなくなったものだから、亜由子の方は、どんどんその気になってきて、 「今日は、何時に帰ってくる?」  と、局にまで出てくるようになってきた。  亜由子の姿は、他の社員には見えない。それをいいことに、亜由子は、正道のデスクにへばりついて、 「シチューが、とってもよくできたから、早く帰ってきてね」  なんてことを言うのだ。 「分かったよ」  と、思わず言うと、アルバイトの女の子が、変な顔をして正道を見た。 「局まで来るなよ」  帰って、亜由子に言うと、 「シチューが、とってもよく出来たのよ、だから、帰ってくる時には、温めておいてあげようと思ったんじゃないの」  普通の女房なら電話をかけてくるところだが、お化けの亜由子は、直接局まできてしまうから始末《しまつ》が悪い。 「私、シチューが得意だったのよ。一度でいいから、男に食べさせてあげようと思ってたのに、一度も、私のとこへ食べにこなかったのよ」  シチューを食べる正道を見ながら、亜由子は、幸せそうな顔をしていた。やっと、男にシチューを食べてもらえる。 「シチュー食って、女にとっつかまえられたら、かなわないと思ったんだろ」 「そうかしら」 「お前みたいな女につかまったらかなわないっていう男の気持ち、分かるような気がするよ」 「どうして、そんなに意地悪ばっかり言うのよ。私は、あなたに食べてもらおうと思って、一生懸命にシチューを作ったのに、どうして、そんなことばっかり言うの」 「泣くな」 「どうせ、私なんか、その程度の女なのよね、あなたにとって」 「その程度もなにも、お前とおれは、何の関係もないの」 「…………」 「生きてる時に、世話女房の真似事《まねごと》が出来なかったって、おれのところでしようと思うな!」  正道は、シチューを食べながら、怒ってしまった。 「ほんとに、お前、どっかに行けよ」 「…………」 「行ってくれ」 「そんなことばっかり言うのなら、死んでやるからね」 「何?」 「出来ないと思ってるんでしょ……ほんとに死んでやるから……帰ってきたら、死んでるからね」 「お化けが、また死ねるのか?」  と、正道が言うと、亜由子は黙って向こうをむいてしまった。 「お前、そうやって男を脅《おど》かしたんだろ?……男が自分のところに来ないと、死んでやるって、すぐ言ったんだろ」 「…………」 「そんなことを言ってるから、死ぬハメになったんだよ」  亜由子は、向こうをむいたままであった。 「こっちを向けよ」 「…………」 「うまいよ、このシチュー」  その時に、亜由子の作ったシチューは、本当においしかったのだ。でも、ふっと気になって、 「お前、この材料、どこから持ってきたんだ?」  と、聞くと、 「マンションのあちこちから勝手に持ってきた」  と、言う。 「そんなことをしないで、ちゃんと買ってこい」 「だって、一度スーパーに行ったら、野菜が宙に浮かぶって、大騒ぎになったんだもの」  亜由子の姿はひとには見えないから、スーパーの棚から野菜を取ると、野菜が宙に浮かんで見えることになる。 「今度から、おれが買ってくるよ」  だんだん、お化けと結婚生活をするハメになってきた。     23 「慶子が、おれのところに来たんだ」  渋谷《しぶや》の桜が丘の奥に、ひっそりとあるバアで、誠は正道に言った。 「いつ?」 「昨夜」 「何をしに?」 「ボストンバッグを下げてきた」 「え?」 「おれのところに置いてくれって……」 「アパートを追い出されたのか?」 「チャンネル男を、私の心の中から追い払ってほしいって、慶子は言ったんだ」 「え?」 「おれなら、それが出来るって……」 「…………」 「しばらく、おれのところに置いてくれって……」 「そうか……」 「おれ、慶子と結婚するよ。もし、慶子が、本当におれのことを好きになってくれたら」  話があるんだと、誠が正道に言った時から、何かがあったのだろうと思った。でも、まさか、慶子が誠と生活を共にしているとは思わなかった。  人を好きになってしまうと、自分の気持ちを持て余してしまう。なかなか割り切れないのが、人を恋する気持ちなのだ。元々は、歯切れのいい性格の慶子だから、そんな自分がイヤで仕様がなかったのだろう。なんとか自分で、自分の気持ちに決着をつけてしまいたかったのかも知れない。  考えてみれば、その役割を誠に頼《たの》むというのは、ひどいことなのかも知れない。それを承知で、誠にそう言っていったというのは、慶子に、誠に対する甘えがあるからだ。甘えのなかには、慶子の誠に対する好意がある。誠の言うように、慶子は誠のことが本当に好きではないかも知れないが、好きになりたいと慶子が思っていることは確かなのだ。慶子が、誠のところに行ったのは、それなりの覚悟《かくご》があってのことなのだ。慶子は、それが自分にとって、一番のいい選択だと思ったのかも知れない。  正道は、慶子とのことが、完全に終わったのだと思った。誠がキスをして、慶子が、それを受け入れたと聞いた時でも、慶子との仲が、ひょっとしたら復活出来るのではないかという気持ちがどこかにあった。  今回の慶子の思い切った行動が、すべてを終わりにしてしまったのだ。  正道のことを、心の中から追い払ってほしいと慶子が言ったのは、まだまだ正道のことを諦《あきら》めきれなかったからだろう。慶子に、美由紀ちゃんのことを非難されただけで、どうして諦めてしまったのだろうと、正道は思った。誠とキスをしたと聞かされても、本当に好きならば、慶子のところに行って、自分も好きだと言えばよかったではないか。自分もキスをすればよかったではないか。そうすれば、慶子は、正道の腕の中にもどってきたかも知れない。  でも、恋というのは、後になって悔《く》やむことが多いのだ。あの時に、ああしておけばよかったのに。あの時、どうしてあんなことをしてしまったのだろう。なぜ、あんなことを言ったのだろう。失った恋には、必ずそんな思いがつきまとう。  恋だけではなく、人生そのものも、そうなのかも知れない。あの時、ああすればよかった。あの時、あんなことをしなければよかった。どうして、こんな人生を送ってきたのだろう。どうして、つまらないことに人生を費《つい》やしてしまったのだろう。人生の終わりにきて、何も悔やむことのない人は、おそらくいないだろう。  人生には、いつか終わりが来る。今、自分が生きている一瞬は、失ってしまえば、もう二度と取りもどせない。それが分かっているはずなのに、人は、今、生きている一瞬を無為《むい》に費やしてしまうのだ。人生というのは、明日でも昨日でもなく、今、自分が生きている一瞬にしかないことを、人はふっと忘れてしまう。明日のために昨日のために、貴重《きちよう》な今の時間を、簡単に手から離してしまうのだ。本当は、一生懸命につかんでいなければならない、今という瞬間を。  あまりにも、この世に未練《みれん》を残した魂《たましい》は、幽霊となって化けて出る。ひょっとしたら、我々が気づかないだけで、未練を残した魂は、いくらでも浮遊《ふゆう》しているかも知れないのだ。未練を残して浮遊しながら、それが分かってもらえない魂は、どうすればいいのだろうか。誰にも見えないお化けは、一体どうすればいいのだろう。  亜由子のように、自分の姿を見てもらえる相手が、この世にひとりでもいたお化けは、幸運というべきかも知れない。 「誰も見てくれなければ、何をしてもつまらない」  亜由子が、正道に執着するのは、ある意味では無理のないことかも知れない。  正道にとって、それが大迷惑であろうとも。     24 「ふられたんでしょ」  亜由子が言った。 「知ってるのか?」 「顔を見れば、分かるわよ」 「…………」 「あんな女に振られたからって、クヨクヨすることないじゃないの。女はいっぱいいるでしょ」 「おれも、そう思ってたよ。あんなやつ、なんだって」 「そうじゃなかったの?」 「そうじゃなかった」 「そういうもんよ……あんなやつ、何だって思うんだけど、いなくなると会いたくなるの」 「お前も、そうだったのか?」 「いつも思ったわよ。あんなやつなんだって」 「何してたんだ?」 「誰が?」 「男だよ」 「人材会社から派遣《はけん》されていった会社の部長さん……部長って言っても、まだ若いのよ。三十六だった」 「やり手だったのか?」 「そう……自分の力を過信して、世の中をなめてるやつだった……そのくせ、小心なところがあって」 「そんな男がいるのなら、どうして、その男のところに化けて出ていかないんだよ。何の関係もないおれにとりついたりしないで」 「会いたくないもの」 「好きだったんだろうが」 「死んでからも会いたくなるような男を、好きになればよかった……でも、そんな男と恋をしていたら、この世に未練なんかなかったかも知れない」 「好きな男に、もう一度会ってみたいって気持ちが残るだろう?」 「ううん‥…生きている時に幸せだったら、その思い出だけで、あの世でも幸せに暮らせるの」 「そういうもんか」 「あなたも死んでみたら分かるわよ」  何とも言いようがなかった。 「人間は、失ってから、初めて、それが、どんなに大事だったか分かるのよ」 「そうだな」 「私の気持ち分かるでしょ。死んでみたら、生きてる時に、あれもしたかったこれもしたかったっていう気持ち」 「分かるよ」 「死ぬなんて思ってもいなかったのよ、私は……人生、まだまだやりなおしがきくって思ってたのよ。これからだって思ってたのよ。もっといい男に会って、もっといい恋をして、もっといいセックスをして……死んでしまったら、何にも出来ない」 「何にも出来ないのか?」 「自分の姿を誰にも見てもらえなかったら、恋なんて出来ないでしょ」 「おれには、見えるじゃないか」 「だから、あなたは、私にとってこの世で一番大事な人なのよ」 「それが迷惑《めいわく》なんだよ」 「迷惑でも仕方ないじゃない……私には、あなたしかいないんだから、仕方がないじゃない」  亜由子が、泣きそうな顔になった。正道が迷惑していることは、亜由子にも分かっているのだ。分かっていながら、正道にとりついて離れないのは、それ以外にはとりつける人がいないからだ。この世でただひとり、それは、恋をする時の気持ちに似ている。 「いくら言われても、おれは、お前に何をしてやるわけにもいかないよ」 「分かってるわよ……私は、ただ、ここにいさせてくれるだけでいい」 「それが、迷惑なんだ」  亜由子が、ふっと立っていってしまった。部屋の隅《すみ》に、いじけたようにしゃがんでいる。今度は、いじけた振りをしてみせてるのかと、正道は、しばらく放っておいたが、亜由子は、いつまでたっても動かない。振りではなく、ほんとうにいじけてしまっているらしい。その後姿を見ていると、正道は、ふっと可哀《かわい》そうになった。未練だらけの亜由子の望みを、ひとつでもいいからかなえてやりたくなった。 「お前、セックスしたいって言ってただろう?」 「それが、どうしたの?」 「してもいいよ」 「何よ、急に……どうして、そんなこと言うのよ」  亜由子が、部屋の隅から振り向いた。 「おれが、お前にしてやれることは、それくらいしかないからだよ」  亜由子の顔が赤くなった。 「お化けでも恥ずかしいのか?」 「当たり前じゃないの」 「お前の未練がましい気持ち、おれにも分かるような気がする」  正道は、亜由子の方に顔を寄せた。亜由子が緊張しているのが分かった。さんざん自分を困らせたのに、セックスしようと自分から迫ったこともあるのにと、正道はおかしくなった。  体には温《ぬく》もりがあったのに、唇はひんやりと冷たかった。その冷たさは、普通の人間のものではなかった。  正道の唇が離れると、亜由子は、ふっと溜め息をついた。そして、むしゃぶりつくように正道に抱きついてきた。  驚くような激しさで、正道にキスをする。  冷たい唇が、正道の唇を吸う。正道の唇の上で、せわしなく動く。あまりの激しさに、正道は、慌《あわ》てて唇を離した。 「どうしたんだ、お前?」 「生きてる時は、男の人とキスするの、あんまり好きじゃなかったの……でも、死んだら、もう一度キスしたくてしたくて……」  亜由子は、すべてのことに未練を残していた。  正道は、もう一度キスをした。ひんやりとした亜由子の唇が、自分の唇の中で蠢《うごめ》くのは、あまりいい気持ちではなかったが、正道は出来るだけやさしく亜由子の唇を吸った。 「こんなやさしいキスをしたの初めて」  亜由子が言って、もう一度正道の唇を求めてきた。最初の激しさは、もうなくなっていた。亜由子は、唇を吸われるままになっていた。正道の唇の感触《かんしよく》を、心ゆくまで味わいたいとでもいうように、目を閉じて、正道にすべてをゆだねていた。 「ああ……」  亜由子が満足そうな声を上げた。生まれてはじめて、気持ちのいいキスをしたとでも言いたげだった。  正道は、亜由子の顔を見た。そして、思わず、唇を亜由子から引き離してしまった。 「どうしたの?」  気持ちのいい状態を、いきなり中断されて、亜由子が咎《とが》めるような声を出した。  でも、正道が、何も言わずに自分の顔を見ているので、 「どうしたのよ?」  と、亜由子は、もう一度聞いた。  正道は、すぐには説明出来なかった。 「何があったの?」  亜由子が、不安そうな声を出した。 「透《す》けて見えてるんだ」 「え?」 「お前の顔が透けて見えてる」  いつのまにか、亜由子の顔が半透明になっていて、その下のじゅうたんが、うっすらと見えていたのだ。  亜由子は、黙って起き上がった。何も言わずに、そのまま向こうをむいてしまう。 「おい……」  と、正道が声をかけても、亜由子は、背を向けて、ただじっと座っていた。自分がこの世の人間でないことを、改めて思い知らされたのだ。  正道も、何も言えずに、ただ黙って座っていた。     25  正道と亜由子は、しばらく黙ったままでいた。  どのくらいの時間がたったか分からない。正道が窓から覗《のぞ》くと、真下にあるアイスクリームショップが、色とりどりのネオンを輝《かがや》かせていた。コーヒーも飲ませるガラス張りのアイスクリームショップは、夜が更けるにしたがって、生き生きとしてくる。  正道は、しばらくの間、アイスクリームショップのネオンを見下していた。  亜由子は、背を向けたままでいる。その後姿には、言葉では表せない淋《さみ》しさが漂《ただよ》っていたが、正道には、どうすることも出来なかった。 「おい」  しばらくして、正道が声をかけた。 「何?」  亜由子が、向こうをむいたままで答えた。 「何か食べにいくか?」 「いいわよ、気をつかわなくても」  亜由子は、こっちを向こうとはしなかった。 「腹がへった。一緒に行こう」  亜由子は答えなかった。 「行こう」  正道は、窓から離れた。 「このまま、こうしていても仕方がないじゃないか」  亜由子が、やっとこっちを向いた。淋しそうな顔が、明るい笑顔に変わっている。心の中から淋しさがなくなったわけではない。淋しさから立ち直る術を、亜由子は、どこかで身につけたのだ。そうしないと生きていけなかったから。 「何を着ていってもいい?」  亜由子が言った。 「いいよ」 「私、着たいものがあるんだ」  亜由子が、玄関の方に行った。しばらくしてから、 「いいわよ」  という亜由子の声が、ドアの向こうから聞こえてきた。  ドアを開けて、正道は、そこに立ちつくしてしまった。玄関に通じる廊下に、亜由子は、純白のウエディングドレスを着て立っていたのだ。それも、思い切りフレアーの付いた、豪華《ごうか》なウエディングドレスを。 「私、いっぺん、これが着たかったんだ」 「そんなもの着て、街が歩けるか?」  正道は、慌てて言った。 「どうせ誰にも見えないんだからいいのよ」  そう言われれば、そうだった。亜由子が何を着ようと、その姿は、正道にしか見えないのだ。  夜の街を、豪華なウエディングドレスを着た亜由子と歩いていくのは、不思議《ふしぎ》な経験だった。こんな経験をした人間は、おそらく正道以外にいないだろう。  ほかの人間に見えないと言っても、正道には見えている。他の人間には見えてないのだと、何度も言い聞かせながら、正道は、夜の街を歩いていった。  でも、人が来るたびに落ち着かなくなる。 「大丈夫。誰にも見えてないの」  亜由子はそう言って、ウキウキと歩いている。 「何を食べたい?」 「中華」 「ウエディングを来て、中華を食べるのか!?」 「お腹がすいてるんだもの」     26 「お一人ですか?」  正道が店に入っていくと、マネージャーらしいのが寄ってきた。  アメリカ式のファミリーレストランが出来てから、席を指定する店が多くなってきた。気のきいたマネージャーだと、うまく席を埋めていくのだが、店の都合まるだしで、まだテーブルが空いているというのに、どんどん客を詰めていく店が多い。正道は、一度そんな目に会うと、二度と行かないのだが、初めて入ったこの中華料理店も、どうやらその類らしくて、 「こちらへ」  と、テーブルに空きがあるというのに、マネージャーが隅の窮屈《きゆうくつ》な席に正道を案内しようとした。 「あっちの席がいい」  正道は、衝立《ついたて》の向こうの大テーブルを指した。マネージャーはあからさまに嫌《いや》な顔をしたが、正道は、かまわずドンドン歩いていった。亜由子にも正道の気持ちが分かったのか、マネージャーの耳をからかって引っ張っている。マネージャーが驚いて振り向いているすきに、正道は、衝立の向こうの席に座ってしまった。  亜由子が、その隣に座る。 「ここじゃないと恥ずかしいんでしょう?」 「人目につかないところじゃないと、落ち着いて食べられないよ」  マネージャーは、自分に言われたのだと思って、 「そうですか」  と、怒ったような顔でメニューを取りにいった。席を指定出来るという、マネージャーとしての特権を無視されたのだ。 「私、ラーメン食べたくなって、一度ここへ来たことがあるんだ」  亜由子が、正道の隣に座った。 「食べたのか?」 「ひとりで来ても、誰も注文を聞きにきてくれなかった」 「それは、そうだな」  マネージャーがメニューを持ってきた。大テーブルをひとりで占拠してと、面白くない顔をしている。  差し出したメニューを、亜由子が取って、正道に渡した。マネージャーが、一瞬けげんな顔になる。メニューが、自分の手から離れて、ひとりでに正道の方に行ったような気がしたのだ。でも、そんなことがあり得るだろうか。 「何にする?」  正道は、小声で亜由子に言った。 「え?」  マネージャーも思わず小声になったのがおかしかった。 「ひとり言だよ」  と、言うと、ムッとした顔で向こうをむいた。  亜由子が、正道の耳元でささやいた。 「前菜《ぜんさい》に、青菜《あおな》のクリーム煮に……エビダンゴに……白身魚の甘酢煮《あまずに》に……酢豚《すぶた》に……とりそば」 「そんなに食べるのか?」  正道は、思わず大きな声を出していた。 「は?」  マネージャーは、自分に言われたと思っている。 「注文していい?」  正道は、マネージャーに言った。 「どうぞ」  マネージャーはニコリともしない。 「えーと……前菜に……青菜のクリーム煮に……エビダンゴに……白身魚の甘酢煮に……酢豚に……とりそば……それと、おれ、チャーハン」 「どなたか、お見えになるのですか?」  マネージャーがあきれたような顔になった。 「いや、おれ、ひとり」 「ひとりで、そんなに食べるんですか?」 「食べるの」 「本当にお食べになるんでしょうね」  マネージャーは、正道をにらみつけるようにして言った。 「食べるから、持ってきてくれ」  正道は、すました顔で言った。  前菜と青菜のクリーム煮を、亜由子は、アッというまに平らげた。その食欲には、正道も驚いてしまった。 「食べても食べても、お腹が空くの」  亜由子が言っていたのは、嘘《うそ》じゃないのだと思った。衝立の陰のテーブルにしてよかったと思った。人の目の前で、皿の上の料理がまたたく間になくなったりしたら、パニックが起きてしまう。  マネージャーが、エビダンゴを持ってきた。前菜と青菜のクリーム煮の皿が空になっているのを見て、思わず正道の顔を見た。  亜由子は、エビダンゴを半分以上食べてしまった。 「よく食べるなあ」  正道が思わず言ってしまう。 「おいしい」  亜由子は嬉しそうな顔をしていた。しかし、食べても食べても満足感がないというのは、不幸なことかも知れない。  正道は、また亜由子のことが可哀そうになってきた。  マネージャーが、白身魚の甘酢煮を持ってくる。エビダンゴが全部なくなっているのを見て、マジマジと正道の顔を見ていった。  マネージャーは、向こうに行ってからも、それとなく正道の方を見ている。あっという間に料理を平らげてしまう正道が、気持ち悪くなってきたのだ。  正道は、マネージャーの見えない位置に皿をずらせた。  マネージャーが、とりそばとチャーハンを持ってきた。テーブルの上の皿には、何も残っていない。マネージャーは、完全に驚いてしまった。正道を、にらみつけるどころではない。正道に対して、尊敬の念さえ懐《いだ》きはじめた。 「これで最後です」  言葉づかいも変わってきた。 「御苦労さん」  正道がそう言うと、マネージャーはふかぶかと頭を下げた。 「どうぞごゆっくり」 「ごちそうさま」  とりそばとチャーハンも平らげて、正道と亜由子が店を出ようとすると、マネージャーの他にコックらしい男まで、ドアのところに出てきていた。マネージャーから話を聞いたらしい。 「おいしかったよ」  正道がわざと偉そうに言うと、マネージャーとコックは、揃《そろ》って丁寧《ていねい》に頭を下げた。 「またお待ちしております」     27  中華料理店を出て、正道と亜由子は、思い切り笑った。  正道は、亜由子と一緒に笑っているつもりだが、亜由子の姿は見えてないのだから、道を行くひとには、正道がひとり笑い転《ころ》げているように見える。  道を通る人が、けげんな顔で見ていくのにも気づかないほど、正道は笑いころげた。気がつくと、コンビニエンスストアの包みを下げた隣の元教師とむつみちゃんも、道の端に立って正道の方を見ている。夜更《よふ》けの歩道で、ひとり笑い転げている正道が、不気味な存在に思えてきたのだ。  正道は、二人に手を上げた。近づいていこうとすると、二人は、慌《あわ》てて走って逃げた。  一瞬ポカンと見送ってから、正道は、亜由子の姿が他の人間には見えないのだということを、やっと思い出した。深夜の街で、ひとり笑い転げている男は、おぞましいというより、恐ろしい存在と思われても仕方がない。  正道と亜由子は、陸橋を渡った。  ほとんどの店が、シャッターを下ろしている。広い通りなのだが、さほど車の通りは多くない。遠くに、アイスクリームショップのネオンが見えている。深夜まで営業している小さなアイスクリームショップは、色とりどりのネオンで囲まれていて、遠くから見ると、そこだけが日常から離れたおとぎの国の建物のように見える。おとぎの国に誘われるのか、小さなアイスクリームショップは、遅くまで繁盛《はんじよう》しているのだ。 「よく食うな、お前は」  遠くのネオンを見ながら、正道が言った。 「私は、十九の時から二十七まで、一番人生を楽しみたい時にダイエットして、食べたいものも食べないできたのよ……どうせ死ぬと分かっていたら、百キロになってもいいから、ドンドン食べればよかった」 「この世に未練《みれん》だらけだな、お前は」  正道は笑った。 「そうよ。私が、生きていた時にしたことは、ダイエットだけなのよ。まだまだしたいことがあったのに、私は、その十分の一も、百分の一もしてないのよ」 「人生、あれも欲しい、これも欲しいってわけにはいかないの」 「そうだけど……私は、あまりに何もなかった」 「男がいたんだろう?」 「ロクな男じゃなかった……あなたは、まわりに結構いい女がいるじゃないの。あっちにもこっちにも誘われて……」 「知ってるのか?」 「すぐそばにいたもの。『ガス燈』の美由紀ちゃん……隣のむつみちゃん」 「いたのか、おれのそばに」 「私は、いつもあなたのそばにいるの」 「背後霊《はいごれい》じゃないか、それじゃ」 「背後霊になってあげてもいいわよ」 「迷惑《めいわく》だよ」 「そう」 「お前にこれ以上とりつかれたりしたら、女にモテなくなる……お前のおかげで、むつみちゃんには、頭がおかしいと思われてしまったよ」  陸橋に、警察官が上がってきた。深夜に、ひとりで陸橋にたたずんでいる正道を不審《ふしん》な顔で見て、 「何をしているんですか?」  と、声をかけてきた。 「話を……」と言いかけて、正道は言い直した。「街を見てるだけです」  警察官は、ますます不審そうな顔で、後ろを振り返りながら陸橋を渡っていった。 「お前といると苦労するよ」  正道は笑った。自分の目には見えていて、他の人間には見えていないのだってことを、すぐ忘れてしまう。 「お前の、その姿を見たら、びっくりするだろうな」  正道は言った。深夜に、豪華なウエディングドレスを着て陸橋に立っている女を見たら、警察官は何と言うだろうか。 「行く?」  亜由子が言った。 「行きたいか?」 「もう少しいたい……いい気持ちだもの」  正道は、煙草《たばこ》に火をつけた。 「おれのうちは、小さい時に、親父とおふくろが離婚したんだよ。おふくろの方が家を出ていってしまった」 「え?」  正道が急に身の上話をしだしたので、亜由子は驚いた顔で正道を見た。 「おれは、小さい時から、おふくろが欲しかった……おれが、あっちの女、こっちの女って飛び回ってたのも、ほんとは、おふくろが欲しかったのかも知れない……」  亜由子は、正道の顔を見たままだった。自分に向かって、正道が、そんな話をするとは思わなかったのだ。 「だから、あっちの女にも、こっちの女にも不満だったんだよ。あっちの女も、こっちの女も、本気で愛せなかったんだよ……今思うと、おれは、昔の思いに囚《とら》われてばかりいて、目の前にあるものをちゃんと見てなかったんだ……大事なものは、遠くにあるものじゃない、今、自分の目の前にあるものだってことに、ずっと気づかないでいたんだ」 「…………」 「大事なものは、昔いなくなったおふくろじゃない。今、自分を愛してくれてる女じゃないか……おれは、それに、ずっと気がつかないでいたんだよ」 「…………」 「いっぱい女がいても、誰とも本気で付き合ってないと、ひとりの女もいないのと同じことじゃないか……誰にも愛されてないと、ひとりの女もいないのと同じことじゃないか」  自分がどうして、そんな話をする気になったのか、正道にも分からなかった。誰にも言ったことのない話だったのだ。  誰かに、一度は言いたかったことだったのかも知れない。この世に未練を残してばっかりいる亜由子を慰《なぐさ》めたいという気持ちもあったのかも知れない。自分だって、いろんな未練を残しているのだということを、人間は誰でも、いっぱい悔《く》いを残しながら生きているのだということを、亜由子に分からせたかったのかも知れない。 「生きているうちに、そんなことを言ってくれる人に会えばよかった……こんなやさしいことを言ってくれる人に会えばよかった」  笑顔を見せながら、亜由子が言った。正道の思いやりを、亜由子はちゃんと分かっていたのだ。 「そうすれば、私の人生はもっと変わっていたかもしれない。そうすれば、私は、死んでも未練なんか残さずにすんだかも知れない」 「すんでしまったことを言っても仕様がないんだよ」 「そうね。でも、私には、すんでしまったことしかないのよ……私には、もう、先のことなんかないのよ」  正道は、亜由子を見た。亜由子は、じっと夜の街を見ている。過去に悔いを残しても、やりなおすことの出来る人生が、正道にはまだ残っている。それが、亜由子にはないのだ。  正道は、亜由子に何と言ってやればいいのか分からなかった。 「いいのよ、もう慰めてもらわなくても」  亜由子が言った。 「行こうか……」  正道は歩き出した。 「うん……」  亜由子も、素直《すなお》に付いてきた。     28  大通りから、少し遠回りして、マンションに帰ることにした。  ゆるい坂道になっているその道には、小さな教会がある。ペンキ塗りの質素《しつそ》な教会なのだが、人の心を和《なご》ませる雰囲気《ふんいき》があって、正道は、駅に行く時、遠回りして教会の前を通ることもあった。  せっかくウエディングドレスを着ているのだからと、亜由子のために、その道を通ることにしたのだ。 「教会がある!」  亜由子が声を上げた。 「知らなかったのか、ここ?」 「知らなかった」 「入ってみるか」 「入れるの?」 「教会やお寺っていうのは、本来は、誰でもいつでも入れるものなんだよ」  正道は、教会の扉を押した。 「開いた!」  亜由子が言った。  この素朴な教会なら、きっと扉が開いている。正道には、そんな気がしていたのだ。  夜の教会の中には、誰もいなかった。風格ある建物ではない。つつましやかな祭壇《さいだん》があって、今はもう、学校でも見かけなくなった木のベンチが並んでいる。でも、ここでお祈りをささげた人々の思いが、教会の内部を、落ち着きのあるものにしていた。  正道と亜由子は、祭壇の方に歩いていった。 「その恰好《かつこう》とぴったりじゃないか」  正道が、歩きながら言った。並んだベンチの真ん中の通路は、結婚式の時、花婿《はなむこ》と花嫁が祭壇に向かうバージンロードなのだ。  亜由子は、黙って歩いていた。  二人は、祭壇の前まで来た。  正道が、正面のキリストの像を見上げながら言った。 「門脇亜由子、汝は、村田正道を夫として、病める時も健《すこ》やかなる時も、共に敬《うやま》い、愛しあっていくことを誓いますか?」  亜由子は、答えようとしなかった。 「村田正道、汝は、門脇亜由子を妻として、病める時も健やかなる時も、共に敬い、愛しあっていくことを誓いますか?」  正道は自分で問うて、 「誓います」  と、自分で答えた。 「お前、これをやりたかったんだろうが?」  正道は亜由子を振り向いた。亜由子の目が、涙でいっぱいになっている。亜由子は何も言えずに、ただ黙って祭壇を見つめていた。  正道が、亜由子の体に腕を回した。悔やむことばかり多いこのお化けに、正道は、たまらなくいじらしいものを感じていた。 「おれがお前にしてやれるのは、このくらいしかない」 「このくらいじゃないわ……こんなことをしてくれる人は、他にはいない……誰も、こんなことしてくれない」  亜由子が心から言った。     29  誠と慶子の仲が、局内の噂《うわさ》になってきた。正道が相手だとひやかす人間も多かっただろうが、誠なら仕様がないと、誰も、あまりそのことに触れたがらなかった。 「慶子と、うまくいっているのか?」  サッカー中継の時に、正道は、誠に聞いた。二人の間で、慶子のことが話題に上ったのは、久しぶりのことだった。  誠は何も答えなかった。 「うまくいってないのか?」  正道は、思わず聞いていた。 「無理《むり》して、おれのとこに来なくてもいいと、昨日、慶子に言ったんだ」 「どうして!?」 「慶子は、一生懸命《いつしようけんめい》におれのことを好きになろうとしてくれた。でも、そうすればするほど、おれのことを本当に好きじゃないってことが分かってきたんだ」 「お前の思い過ごしじゃないのか?」 「そうじゃないよ。おれにだって、慶子の気持ちくらい分かる……いい人と好きな人とは違うってことが、慶子にも分かってきたんだよ」 「…………」 「無理しなくていいって、おれは、慶子に言ったんだ……無理は、相手にも分かってしまう」 「慶子、何て言ってた?」 「黙ってた」 「そうか……」 「おれのところにあった荷物を、昨日、慶子は持って帰ったよ」 「え?」 「帰り道で、慶子がこんなことを言ってた」 「何を?」 「前に、おれ、人間が生きていくのって淋《さみ》しいんだって、慶子に言ったことがあるんだ。だから、人は人を好きになるんだって……だから、人は、誰かと一緒になりたがるんだって……そのことが、今、初めて分かったような気がするって、慶子が言ってた」 「…………」 「お前が淋しいって気持ちも、初めて分かったって……」 「…………」 「ゴメンねって、慶子は、おれに言った……でも、謝《あやま》るようなことじゃない」  話の途中で、誠は、中継車から出ていってしまった。 「宮と別れたのか?」  正道は、局の廊下で慶子をつかまえて聞いた。 「ええ」  慶子が言った。 「私、辞表出したのよ」 「辞表?」 「ええ」 「どうして!?」 「私、宮ちゃんに悪いことをしてしまったんだもの」 「宮のことと、仕事とは関係ないじゃないか」 「そうだけど……」 「宮だって、お前を恨《うら》んでなんかいない」 「…………」 「放送室のディレクターになれたばっかりだろうが」 「そうだけど……」 「中継車のディレクターにだってなってみたいって言ってたじゃないか」 「うん……」 「仕事とプライベートなことをゴッチャにするなよ」 「うん……」 「宮にだって、お前の気持ちは分かってるよ」  慶子は黙っていた。廊下を、報道の連中が通っていった。 「慶子ちゃん、辞表出したんだって?」  中のひとりが、立ち止まった。スポーツ中継にも顔を出すことのあるカメラマンだ。 「ええ」 「どうして!?」  慶子は黙っていた。 「また、そのうちに」  カメラマンは、仲間を追って走っていった。 「みんな、驚いてるじゃないか」 「ええ」 「プライベートなことで仕事を捨てるなんて、お前らしくないよ」  正道は、怒ったように言った。 「私は……このまま宮ちゃんと顔を合わせていくわけにはいかないのよ……宮ちゃんの気持ちを、自分勝手に利用してしまったんだもの」  慶子の辞表は、なかなか受理されなかった。新入社員が、やっと役に立つところまできた時に辞めるというのだから、そんな単純に認められるわけがない。しばらく休職扱いにするということで、部長が、辞表を預《あず》かろうとしたが、慶子の辞意は強かった。  一月後に、慶子の辞表は受理された。  あれほど張り切っていたスポーツ局の仕事を、スパッとあきらめてしまうところが、慶子らしく歯切れがよかった。  誠に悪いという気持ちが、よほど強いのだろうと正道は思った。自分の甘えで、誠を傷つけてしまった。その自分が、今までと変わらない生活をしていくことが、自分でも許せないのだろうと思った。 「おれは、きみが、おれのところに来てくれただけでいいんだよ。それで、おれは満足なんだよ」  誠も、慶子に局をやめることを思い止まらせようとしたのだが、誠の人のよさは、逆に慶子をつらくさせた。ひどいことをしたと、思い切って罵倒《ばとう》された方が、気持ちが吹っ切れたかも知れない。  局を去って、郷里の高槻《たかつき》に帰る日、慶子は、正道に会いにきた。手にボストンバッグを下げている。 「これから、どうするんだ?」 「オーストラリアに行くの」 「オーストラリア?」 「お父さんが、ゴールドコーストで商売を始めるの。しばらく、それの手伝いをしようと思ってる……」 「そうか……」  マンションの戸口のところで、慶子は立っている。上がれと言っても、すぐ行くからと、上がろうとしなかったのだ。二人の間で、会話が途切れてしまった。 「じゃ……」  と、慶子が言った。 「送っていくよ、そこまで」  正道は、踵《かかと》のつぶれたスニーカーをつっかけて、慶子を恵比寿《えびす》駅まで送っていった。 「部長は、いつでも、もどってこいって言ってるよ」 「ええ」 「もどってこいよ。宮のことも、いつまでも気にすることはない」 「部長には、本当のことを話したの」 「おれと宮のことをか?」 「だって、あんなに真剣《しんけん》になって私のことを引き止めてくれたんだもの。あいまいな理由じゃ悪いと思った」 「何て言ってた、部長」 「それが、過去のことと思えるようになったら、もう一度もどってこいって」 「そうしろよ」 「ええ」  慶子の言葉には元気がなかった。ああ言えば、こう言う。打てば響くような反応をしめしていた慶子が、沈んだ口調で話すのを聞くのはつらかった。もう一度、昔の慶子を見てみたかった。でも、それはもう、不可能なことなのかも知れない。 「さよなら」  と、慶子は言った。 「今度こそ、本当のさよなら」  そう言って、慶子は改札口を入っていった。一度ふっと立ち止まったが、そのままホームへの階段を上がっていった。正道の方を振り返ろうとはしなかった。  慶子の姿が見えなくなった時、正道の方も、今度こそ本当のさよならだと思っていた。     30 「どうして、引き止めてやらなかったんだよ! 慶子が、わざわざお前に会いにいったのは、お前に引き止めてもらいたかったからじゃないか!」  慶子が会いにきたことを話すと、誠が、ものすごく怒った。中継車の中には、技術の連中もいるのに、かまいもしない。 「表に出よう、宮」  正道は、誠を中継車の外に連れていった。 「おれとあんなことになったのを気にしてるのか、お前は!」  中継車の外へ出ても、誠は、まだ怒っていた。 「そんなことは気にしてない」 「じゃ、どうして、慶子を帰してしまったんだよ」 「いまさら辞めるなって言ったって、気持ちを変える慶子じゃないよ」 「局に引き止めろって言ってるんじゃない。お前のところに引き止めろって言ってるんだ」 「…………」 「慶子は、お前のことが好きなんだよ。なんだかんだって言ったって、お前のことが忘れられないんだ。おれのところに来て、慶子には、それが分かったんだ。慶子が局を辞めたのは、おれのせいだけじゃない。お前のせいでもあるんだ。慶子が、そばにいてつらかったのは、おれだけじゃない。お前のそばにいるのも、つらかったんだ。その気持ちをどうして分かってやらないんだよ!」  慶子の気持ちが分からなかったわけではなかった。ボストンバッグを下げて正道のマンションに立ち寄ったことに、慶子の気持ちが現れていた。さよならを言うだけなら、電話でもすんだのだ。 「帰るな!」  そう、慶子に言おうとした。それを止めさせたものが何なのか、正道にも分からない。 「おれは、今まで、相手の気持ちを考えたことがなかったんだ。いつも、自分の気持ちを相手に押しつけてた。相手が、イヤなことをすると、すぐ別の女のところに行ってしまった……」  正道は、誠に言った。 「いっぺんくらい、慶子にいいことをしてやりたかったんだよ」 「いいことって?」 「おれなんかより、もっと幸せにしてくれる人間が、慶子には必ず出てくる……慶子は、そういう女だよ。今は、おれのことが忘れられないかもしれないけど、時間がたてば、すぐに忘れる……それが、慶子にとって一番いいことなんだよ」     31 「カッコのいいこと言って」  正道の顔を見るなり、亜由子が言った。マンションの玄関で、正道は、まだ靴を脱いでいなかった。 「聞いてたのか?」 「そばにいたもの」 「そばに!?」 「姿を見せて、びっくりさせてやろうかと思ったけど、あんまり深刻な顔をしてるので、やめてあげたの」 「おれのそばにばっかりいないで、どっかに行ったらどうだ」 「邪魔《じやま》なの?」 「そうじゃないけど……」 「はっきり言いなさいよ」 「邪魔じゃないよ、昔ほどは」 「少しは邪魔なんじゃない」 「うるさいやつだなあ、お前は」  正道が靴を脱いであがっていくと、亜由子が、後ろをついてきた。 「慶子さんの実家に行って、どうしてるか見てきてあげようか?」 「そんなこと出来るのか?」  正道は、亜由子を振り向いた。 「お化けには距離なんか関係ないの」 「見てきたって仕様がないよ……」  正道は上着を脱いだ。亜由子が、それを受け取って、ハンガーにかけた。 「強がり言って……あなたが、あんなにあの女が好きだとは思わなかったわよ」  亜由子は、からかうように言った。 「チャンネル男が、カッコつけたことを言って……それが、慶子にとって一番いいことなんだよ、だって」 「やめろよ」 「あなた、自信がなかったのよ。あの女のことを幸せにしなきゃと思ったけど、その自信がなかったのよ」 「…………」 「自信をなくするほど、幸せにしてやりたいという気持ちが強かったのよ」 「…………」 「要するに、あなたは、そのくらい、あの女に惚《ほ》れちゃったのよ」 「お前、どうして、おれの気持ちが分かるんだ」 「分かるわよ」 「どうして?」  亜由子は、正道の顔を見つめた。最初に正道の部屋に現れた時に比べて、亜由子の顔がずっと柔らかくなっていることに、正道は改めて気づいた。 「私も、あなたのことが好きになったから」  亜由子が、向こうをむいて言った。 「私は、この世で、好きな男なんかいなかったのよ」  向こうをむいたままで、亜由子は小さな声で言った。 「男がいたって言ってたじゃないか」 「好きじゃなかった、あんな男……どうしようもないってことが自分でも分かっていながら、しがみついてたの」 「どうして?」 「他にいなかったからよ」 「吹っ切れば、また別の男に会えたんだよ」 「そうだったかも知れない」 「おれも、慶子を吹っ切って、また別な女を探す」 「ダメよ、そんなことをしちゃ」 「どうして?」 「好きな人って、そんなにいるわけじゃないもの」 「…………」 「私は、死んでから、初めて人を好きになったのよ」 「…………」 「お化けに好きになられたりしたら、誰だって迷惑かも知れないけど……私、もう、あなたのところには現れないから」 「どうして?」 「恋を出来ない人を好きになるのは、つらいもの」  亜由子は、その時から、本当に正道の前に現れなくなった。迷惑なやつだと思っていたのだが、いなくなると淋しい。 「いるのか!……いるのなら、姿を見せろ!」  マンションに帰るたびに、正道は、部屋に呼びかけたのだが、亜由子は現れなかった。 「お化けがいなくなった」  局に言って、誠に話すと、 「あれからずっといたのか?」  誠は、驚いた顔をした。 「やっといなくなってくれたんだよ」 「よかったじゃないか」 「よかった」  亜由子がいなくなって淋しいなんてことを誠に話すと、どんな誤解をするか分からないので、黙っていることにした。お化けにとりつかれたと思ってしまうかも知れない。とりつかれたのではない、お化けに恋をされたのだと言うと、誠はどんな顔をするだろう。 「また、誰か探そうや」  誠が言った。 「お化けをか?」  正道は、思わず言ってしまった。 「違うよ」  何を言ってるんだと、誠が、けげんな顔で正道をみた。 「彼女をだよ」 「ああ」 「編成の松野に、友達を連れてこいって言っといたから、今度の土曜にダブルデイトをしよう」  松野というのは、去年編成に入ってきた女子社員で、愛くるしい顔をしているので、局内の独身社員の間では評判になっている娘なのだ。 「いつのまに口説《くど》いたんだ、お前?」 「おれだって、素早いこともあるんだよ」  と、誠は笑った。そして、淋しそうな顔でつけ加えた。 「慶子は、おれのことを、あんなに気にすることはなかったんだ」  土曜日に、待ち合わせ場所に行くと、愛くるしい松野が、美人の友達を連れてきていた。  ダブルデイトは大いに盛り上がった。  誠は、正道が思っていたよりも松野という娘を気に入ってるようで、正道とダブルデイトにしたのは、一対一だと断られる恐れがあったかららしい。正道は、ダシに使われたのだ。  でも、ダシの方も、美人に気に入られて、まんざらでもなかった。松野も美人の友達も、陽気な性格だったから、酒が入るにつれて、どんどん賑《にぎ》やかになった。しかし、その陽気な騒ぎの中で、正道は、ふっと慶子のことを思い出してしまっていた。こんな時に余計なことをと思ったのだが、酒が回るに連れて、慶子は、どんどん正道の心の中でふくれあがっていく。 「もう、一軒行こう!」  ビヤレストランを出ると、誠と松野は、肩を組んでタクシーを探しにいった。 「悪いけど、おれ、帰るよ」  正道は、そばに残っていた美人の友達に言ってしまった。美人の友達が、正道を見た。女の私がまだ帰らないと言っているのに、どうして帰るの。目が、正道を咎《とが》めていた。  美人との仲もこれまでだなと、正道は思ったが、白けてきてしまった自分の気持ちをどうしようもなかった。 「帰るのか?」  タクシーを止めた誠が、あきれたように言った。 「帰っちゃダメ」  松野が、正道の手を引っ張った。 「ゴメン、明日仕事なんだ」  誠が正道を見た。それが嘘《うそ》であることは、誠には分かっている。 「じゃあな」  何か訳があるのだろうと思った誠は、それ以上引き止めずに、タクシーに乗り込んだ。美人の友達も、その後からさっさとタクシーに乗ってしまった。 「村田さんに送っていってもらうんじゃなかったの」  松野が、後から乗り込みながら、美人の友達に言った。松野は、誠と二人きりで飲みたかったのだ。 「いいの」  美人の友達が、窓から正道を見ながら言った。  タクシーが走り出した。 「またな!」  誠が、窓を開けて怒鳴った。     32  マンションにもどると、亜由子が居間のソファに座っていた。 「どこに行ってたのよ」  怒った顔をしている。 「お前こそ、どこに行ってたんだよ」  亜由子は、それには答えず、 「どこに行ってたの?」  と、聞く。 「誠とダブルデイトだ」  と、言うと、 「ふーん」  と、非難するような目で見る。 「いいじゃないか。デイトくらいしても」 「よくないわよ」 「どうして?」 「私、あの女の実家に行ってたのよ」 「慶子の実家へか!?」 「そう」 「あなたのために様子を見てきて上げたのに、あなたは他の女とデイトしてるの」 「怒るなよ」 「慶子さん、いなかったわよ」  亜由子が、慶子のことを名前で呼んだのは、初めてだった。 「いないって……?」 「家族みんなでオーストラリアに行くので、成田《なりた》のホテルに泊まってるの」 「もう、行くのか?」 「いいの?」 「いいのって……仕方ないじゃないか」 「明日は、もう日本にいなくなるのよ」 「…………」 「いいの?」 「うるさいやつだなあ」 「会いたい?」 「…………」 「今、行けば間に合うよ」 「…………」 「連れていってあげる、私が」 「どうやって?」  亜由子が、ふあっと浮き上がった。部屋の中を自由に飛び回りながら、窓の外へ出ていった。正道も、ガラス戸を開けて、ベランダに出ていった。  ベランダの外に、亜由子の姿が浮いて、ゆったりと上下に揺れている。気持ちよさそうだった。 「そこから、私の方へ飛んで」  亜由子が言った。 「え?」 「そうしたら、アッという間に、成田のホテルまで連れていってあげる」  亜由子は、ベランダから宙に向かって飛べと言っているのだ。 「ここから飛び下りさせて、おれを死なそうと思ってるんじゃないのか?」  ふっと、そんな気がした。 「そう思う?」  亜由子は笑っている。 「自分の仲間にしようと思ってるんじゃないのか?」 「そう思う?」  亜由子が、宙でぐるりと回ってみせた。 「私を信じる?」 「…………」 「信じるのなら、そこから飛んで」 「…………」 「どうして、おれを慶子と会わせようとするんだ」 「好きなひとって、そんなにいるわけじゃないから……私が、あなただけにしか見えなかったように」 「…………」 「私を信じる?」 「…………」 「信じるのなら、そこから飛んで」  亜由子は、もう一度ぐるりと回って見せた。  正道は、完全に亜由子を信じたわけではなかった。でも、信じようと思った。  正道は、ベランダの手すりを乗り越えて、向こう側に出ていった。鉄柵をしっかりとつかまえている。手すりを離すのは、さすがにためらいがあった。 「飛んで」  亜由子が笑った。  その笑顔が、自分にやさしく言い聞かせているようにも、恐ろしいたくらみを秘めているようにも見えた。  隣のガラス戸が開いて、元教師とむつみちゃんが出てきた。 「何してるんですか、あなたは!?」 「自殺する気なの!」  二人が同時に言った。  その言葉にそそのかされるように、正道は、手すりを離していた。 「ウワーッ!」  自分の上げた声なのか、それとも隣の住人の上げた声なのか、正道にも分からなかった。両方の声だったのかも知れない。  その声を遠くに聞きながら、正道は、どんどん落ちていった。  亜由子の言ったことは、嘘だ。やっぱり、おれを、あの世に連れていこうとしている。正道は、そう思った。 「110番!……早く、110番!」  むつみちゃんが、ベランダから下を覗《のぞ》いて大きな声を出しているのが、はっきりと聞こえた。  正道は、どんどん落ちていった。  地面に叩《たた》きつけられる。そう思った瞬間、正道の体がフワリと浮いた。すごいスピードで、どんどん飛んでいく。  不思議と風は感じなかった。  街の灯が猛スピードで飛び去っていく。窓の明かり、ネオンの輝き、車のヘッドライト、電車のテールランプ……そのすべてが、いく筋もの光となって、正道についてきていた。  正道は、光の筋の中を飛んでいた。光に守られるようにして、飛んでいた。 「大丈夫よ」  耳のそばで、亜由子の声がした。  亜由子の姿は見えなかった。 「どこにいるんだ?」  正道が聞いた。 「あなたと一緒」  亜由子が答えた。 「どこへ行く?」 「ついでだから、あの世でデイトしていこ?」 「そ、そんなところへは行きたくない!」     33  夜の灯が、いく筋もの光になった。正道の体に沿って、光の筋が走っていく。正道は、いろんな光と共に、光の中を走っていった。  どこへ行くのか、正道には分からない。  遠くに、白い光が見えてきた。ぼんやりとした小さな光である。正道は、その光に向かって飛んでいった。正道と共に走っていた色とりどりの光が、白い光の中に吸い込まれていく。  白い光は、だんだん大きくなっていった。だんだん明るくなっていった。やがて、正道の体をいっぱいに包んだ。  強い光である。でも、まぶしくはなかった。光の中に入ると、正道は、言いようのないやすらぎを感じた。同じやすらぎを、どこかで味わったことがあるような気がした。でも、どこで味わったのか、どうしても思い出せなかった。 「お母さんのお腹の中よ」  亜由子の声がした。姿は見えなくなったが、亜由子は、正道のそばにいるようだった。正道の思っていることは、言葉に出さなくても、亜由子に伝わっているようだった。 「この光は、命の光」  また亜由子の声がした。  正道は、光に包まれることで、すっかり落ち着いていた。いろんな色の光の中を飛んでいる時の不安な感じは、どこかにいってしまっていた。自分が、この光に守られているのだということが分かっていた。光に言いようのない魅力を感じ、光の中をどこまでも入っていきたいと思っていた。 「私が死んだ時も、この光が迎《むか》えにきてくれたの」  亜由子の声がした。  正道は、光に包まれて飛んでいった。飛んでいるという意識も、いつのまにかなくなっていた。どこかに向かっている、そう思ったが、ただ光の中に浮かんでいるだけのような気もしていた。  光の中に、誰かがいた。  形は分からなかったが、何かの存在を、正道は光の中に感じた。 「隣のおじさんだ……」  正道は声を上げていた。幼稚園ぐらいだっただろうか、その頃、住んでいた静岡の家の隣に、正道たちを可愛がってくれるおじさんがいたのだ。ずっと年上のような気がしていたが、今思うと、まだ、三十そこそこだったかも知れない。ある日、隣の女の人が泣きながら、母親に会いにきた。その次の日、隣の家でお葬式があった。  正道は、隣のおじさんがどうしていなくなったのか分からなかった。おじさんに会いたいと、正道は泣いて、母親を困らせた。 「お久しぶりです、おじさん……お元気ですか?」  死んでしまった人に元気ですかというのもおかしいと思ったが、そんな挨拶《あいさつ》が自然に口から出た。おじさんの声は聞こえなかった。でも、自分の言葉が、おじさんに届いていることは分かっていた。  光の中に、もうひとつ別の存在を感じた。 「河村!……おれだ……どうして、そんなに早く死んでしまったんだよ」  正道は、その存在に語りかけていた。河村というのは、中学の時の一番の親友だった。二年の秋に、急性の病気で、突然他界してしまったのだ。 「お前と、いろんな話がしたかったんだよ。いっぱい話したいことがあったんだよ」  光の中で、河村が微笑《ほほえ》んでいる。正道には、それが分かった。 「あ、おばあちゃん、元気にしてますか……どうですか、こっちは……信夫!?……お前、昔のままじゃないか……ヤンチャのままじゃないか……なつかしいなあ……先生……桑原《くわはら》先生ですか?……すみません……おれ、いたずらばっかりして、いろいろ迷惑をかけました……」  母親がわりになって、正道を育ててくれたおばあちゃん。子供の頃、交通事故で死んでしまったヤンチャ坊主。小学校の時の好きだった先生。  光の中に、いろんな存在があった。どの存在も、暖かい微笑みで、正道を見守ってくれている。正道は、みんなに見つめられて、いままで以上のやすらぎを感じていた。  白い光の中に、また色とりどりの光が見えはじめた。自分が飛んでいるのだということを、正道は、また意識しはじめた。いろんな色の光が、正道の体の脇《わき》を走りはじめた。正道は、また光と一緒になって飛んでいた。  光の筋が、いつのまにかネオンに見えてきた。街の明かりが、もどってきた。  都会の光の海の上を、正道は飛んでいた。夜の空に、浮かんでいた。 「おれたち、どこへ行ってたんだ?」 「あの世」 「あの世!?」 「いろんな人に会ったでしょ」 「会った」 「会いたかった人でしょう?」 「そうだ」 「いい気持ちだったでしょう?」 「気持ちが、とってもやすらいでた」 「死後の世界をいやなものだと、みんな思いすぎるのよ。テレビや雑誌が、無残に殺された死体を見せたり、病院で苦しんでいる人を見せたりするから……ほんとうは、死ぬことは、そんなに酷《むご》いことじゃない。寿命がつきて、人は死んでいく。でも、それは、みんなが思っているほど、悲しいことじゃないのよ。つらいことでもないのよ」  亜由子の言葉が、やさしく聞こえていた。 「私は、行くわ」 「どこへ?」 「さっきのところにもどるのよ」 「行ったらダメだ!」 「どうして?」 「おれ、ひとりでは飛べないじゃないか」 「大丈夫よ」 「大丈夫じゃない!」 「あなたのところに化けてでてよかった」 「行くな!」 「あなたに会えてよかった」 「…………」 「私は、もう、この世に未練はないのよ」 「…………」 「あなたが、そうしてくれたの」 「…………」 「さよなら」 「亜由子!」  正道は、初めて名前を呼んでいた。  その瞬間、腕の中に、確かな存在を感じた。腕が誰かを抱いている、そう思った。  女の体だった。緊張《きんちよう》しきった女の体を抱いて、正道は、都会の夜の空を飛んでいた。 「慶子!?」  正道と一緒に飛んでいるのは、慶子だった。 「正道さん!」  力いっぱいしがみついて、慶子も、初めて正道の名前を呼んだ。 「私は、何してるの?」 「こっちが聞きたい」 「ここは、どこ?」 「空の上だよ」 「空?……空で何をしてるの?」 「飛んでるんだよ、おれと一緒に」 「え?」 「分からないのか?」 「分からない……成田のホテルのベランダで空を見てたの。そうしたら、いきなり体がふわっと舞い上がって……」 「下を見てみろよ。滑走路の灯が、きれいに並んでるじゃないか……ホラ、おれたちは飛行機だ」  正道は、滑走路の光に向かって、飛んでいった。 「きゃあッ!」  慶子が悲鳴を上げた。 「大丈夫だよ……大丈夫なんだ」  滑走路の青い光に沿って飛んで、あっというまに海に出ていった。 「いやよッ!」  慶子が、また大きな声を上げた。 「しっかりつかまっていれば、大丈夫だよ」  どうして大丈夫なのか、自分でも分からなかった。しかし、落ちることはないことは、なぜか分かっていた。 「下を見てみろよ。東京湾をフェリーが走っていく」  慶子が、恐々《こわごわ》と下を見た。黒々とした海に、明るく光をつけた船が、ゆったりとしたスピードで動いていた。 「おれたちは、東京の空に浮かんでいるんだよ、慶子」 「どうして!?」 「おれの部屋にいたお化けが、お前に会わせてくれたんだ」 「お化けが?」 「お前と一緒に、こうやって飛ばせてくれてるんだ」 「…………」 「信じるだろう、慶子……おれの部屋にはお化けがいたってことを」  慶子は、下を見た。イルミネーションで飾られた大きな橋が見えてきた。 「ベイブリッジだよ、慶子」 「空から見てるの、私たち? ベイブリッジを空から見てるの?」  橋が出来てすぐの頃、誠や他のスタッフたちと、マイクロバスで渡りにいったことがあるのだ。テレビ局に勤めている人間は、好奇心が強い。好奇心をなくすと、ダメになってしまう世界なのだ。  ベイブリッジのイルミネーションに沿って、飛んでいった。橋を渡る車のヘッドライトが、正道たちと一緒に動いていく。 「慶子」 「何?」 「世の中は、おれたちが思ってるよりも、ずっといろんなことがあるんだよ」 「…………」 「この世の中は、おれたちが思ってるよりも、ずっとずっと広いんだよ」 「…………」 「人間が頭で考えていることよりも、もっともっといろんなことが、この世にはあるんだよ」 「…………」 「おれにも、初めてそのことが分かってきたんだ。おれの部屋にいたお化けが、そのことを教えてくれたんだ」 「どこに行ったの、そのお化け?」 「あの世にもどったよ」 「…………」 「おれに会えてよかったって言ってくれた。おれも、あいつに会えてよかったと思っている」 「…………」 「信じるか、慶子?」 「…………」 「おれは、お前が好きだ……この世で、一番お前が好きだ。信じろよ、慶子」  ベイブリッジを通りすぎると、あっという間に光の海になった。小さな光の筋は、車のヘッドライトだ。電車のテールランプが走っていく。ネオンが、色とりどりに輝いている。  都会の光の海の上を、正道と慶子は、ゆっくりと飛んでいった。  慶子が、正道にしがみついてきた。  正道も、慶子を抱き締《し》めた。キスをしようと振り向かせると、慶子の目に涙が浮かんでいた。 「どうした?」 「何が?」 「泣いてるじゃないか」 「泣いてるの、私?」 「そう」  慶子は、自分がなにをしているか分からなくなっているようだった。 「怖《こわ》いか?」 「ううん」 「悲しいのか?」 「ううん」 「ホテルにもどりたいか?」 「もどりたくなんかない」  慶子は、いっそう強く、正道にしがみついてきた。 「前に、宮ちゃんに言われたことがあるのよ。自分でも思ってもみないことが、この世にあるんだよ。信じろよ、慶子って」  慶子の目に、涙が後から後から出てきた。 「私は、自分の頭で理解出来ないことは、信じようとはしなかった……そんなことをしたら、自分がどうやって生きていっていいか分からなくなるって、どこかで思ってたのかも知れない。頭の中が、いつもちゃんと整理出来てないと、嫌《いや》だったのかも知れない。……でも、私は、今自分が何をしているかも分からない。これから、どうやっていいかも分からなくなってる……」 「おれも、これから、どうやって生きていっていいか分からないんだ……でも、それでいいような気もしている」 「私も、今、そんな気がしている……」 「この世の中は、人間が考えているよりも、ずっと大きいんだよ、ずっとずっと広いんだよ」 「私、今なら、それが信じられる」 「もどってこいよ、慶子」 「え?」 「もう一度、局にもどってこいよ。宮も、きっと分かってくれる」  慶子が、正道にしがみついてきた。そのまま、正道にキスをしてくる。 「好きよ」  慶子が言った。 「おれも好きだ」  正道が言った。  光の海の上で、二人は強く抱き合ってキスをした。自分たちが空に浮かんでいることを、二人とも忘れていた。 「こんな素敵《すてき》なキスが出来るなんて思わなかった」  慶子が言った。 「おれも」  正道が言った。 「好きよ」  慶子が、もう一度言った。 「好き!」  もう一度言った。 「好きだ」  正道も言った。  信じられないほど、慶子は、素直《すなお》になっていた。正道も、こんなに素直になれたのは初めてだと思った。  素直でいられるということは、こんなにも心地《ここち》好いものなのだ。それを感じながら、二人は、空を飛んでいた。抱き合ったまま、どこまでも飛んでいった。  どこに行くのか分からなかった。自分たちが、これからどうなるのかも分かっていなかった。  でも、正道は、心に決めていた。今、目の前にいるこの女を大事にしようと。今、この瞬間を、大事にしようと。  自分が生きているのは、明日でも昨日でもない。今の、この瞬間なのだから。そう思いながら、正道は、慶子を強く抱きしめて、都会の空を飛んでいった。 角川文庫『恋しても』平成三年十二月十日初版刊行